コロナ禍の中の教会 10月2日、H先生への手紙から

教会では9月から聖餐式こそ行われるようになりましたが、ソーシャルデスタンスとやらを守りつつ、私とIさんを例外に全員マスクでの礼拝になっています。私は最初からどうしてこんなあたりを見ても誰も倒れている人がいない風邪を怖がってるんだろう、と不思議に思ってる方で、マスクは生きておられる神様を受け止めず、それ以外のもの(偶像)を怖がっている印のようでとても嫌で、世間と同じすごい圧力を感じつつ、礼拝に行くのも苦痛なのですが、いつかみんな目覚めてほしいと思いつつノーマスクを貫いています他の人にうつさないようになどと全員が突然に博愛主義者のようになったような物言いも、とても嫌です。それではコロナよりより多い3,000人以上の死者を出している毎年のインフルエンザのときはどうしていたのでしょう、と皮肉も言いたくなります。結核や肺炎球菌、交通事故など他の死亡事例とリスク比較すればすぐにわかることなのに、どうしてそれらと比べてコロナだけ特別にしてしまっているのだろうと思います。
 
実際の効果に疑問符が付されているマスクを神社のお守りのように絶対視し、専門家の言うソーシャルディスタンス、三密を加えて、半永久的な「新しい生活習慣」と称しています。これらはまるで社会と家庭の分断と破壊を意図して「これからはずっと愛なくして生きろ」と言ってるようで、悪魔の陰謀のように私には思えます。これをマスコミが連日の報道により煽り立てた非合理な恐怖をバックに、子供から老人までやすやすと順守するようにしてしまったのですから、恐ろしいことです。しかし、これも神様のご計画のうちなのでしょう。ナチスの迫害の時代、収容所に向かう列車に一人笑みを浮かべ小躍りをしつつ乗り込んだラビの話を読んだことがありますが、この世界を巻き込んでいる非合理な出来事も、神様がご計画のうちになさっていることであり、ここにも私たちを救いたもう神様が確かにおられるとの信仰へと導かれたく思います。
 
教会はコロナを恐れて右往左往する世間とは根本的に違う場所です。私はそのことのみを信じて、社会との間の矛盾を感じて何度か通うのをやめたいと思ったときもあったのですが、40年間かろうじて教会に繋がってきました。ある意味で教会とは誤解を恐れずに言えば、この世の常識と相入れない選択もしなければならない場所と思っています。ところが現状を見ると、この世の人の言うことを恐れ「私たちの生死を司り、私たちを救ってくださるのは神様だ。マスクをしてても、他の原因で神様から明日お呼びがかかるかもしれない、この我々には予知できない死を恐れるのではなく、滅びに至らしめるこの方をこそ恐れねばならない」という信仰的視点がかけているのが残念です。黙示録には「おくびょうな者」が第二の死へと至らしめる者たちの筆頭にあげられていますが、コロナを恐れる声が満ちる中でその言葉を噛み締めさせられている日々です。
 
コロナで良い事は、聖書を以前よりもっと読み自分で考えるようになったことです。最近、「そうか、気づかなかった」と思ったのが、「からだの復活」ということです。そうです、企図されてるのはまさしく「身体」という名の全体性の復活なのです。「脳」の復活ではないのです。ところが、近代以降日本に入ってきたキリスト教は、西洋の文化的知識として入ってきて知識人の間に広がりました。「信仰によって義とされる」というルターの命題も、教義や教理さえ法律事項のように頭で理解すれば良いかのように解釈されてしまい、教会は皆学校と同じくお勉強に励む場所になってしまいました。これでは普通の方に敷居が高いと思われるのは当然ですし、そこでは生きる喜びも得られません。この「身体」という受け止めがないから、頭と体の分裂が起こりました。例をあげれば、夏目漱石の苦悩も、文明開化で「身体」を失って西洋流の概念が詰まった「頭」を注入された知識人の典型的苦悩なのでしょう。内村鑑三と関わりのある有島武郎の出来事などもこの分裂と体の抑圧の中から起こった出来事なのかもしれません。そういう意味で知識人の近代は、等しく「ノイローゼを運命付けられた時代」です。
 
「身体」の抑圧というのは日本だけでなく世界中で近代以降に起こったことで、カントの人間の知的作用に偏重したカテゴリー分割の論理が底にはあるのでしょう。一方で近代理性の創始者のように見られているデカルトは、各地を放浪して歩いた人で、彼の理性はこの彼の放浪する身体とは無関係ではありません。小林秀雄には「様々な衣装」や「一つの脳髄」という初期エッセーがありますが、この時から近代知万能の風潮に懐疑的でしたが、戦後まもなく「常識について」というエッセーを書き、デカルトのボンサンスが彼の「経験」(身体)と無縁でないことを述べています。戦争に至るとんでもない選択も、「脳」が引き起こしたことという認識だったのでしょうか。先生がお話ししておられた、キリスト教会の感覚や感性の軽視もこのことにつながるものだと思います。
 
聖書でも悪魔は人間の「脳」に働きかけます。「神様はこうおっしゃるけど、実は…」というのは聖書を一貫してる誘惑のパターンで、私はこのことに関連して、かつて婦人会の代表を長い間勤められて、教会員から尊敬を受けていたある方がふと漏らした言葉をときどき思い浮かべます。今より信徒数がはるかに多かった時代、婦人会の方々が催しの準備で忙しくしていた時、「さあさあ、神様は何もしてくださいませんからね」と。ひょっとして私たちは今もこのように思っているのではないでしょうか。神様を遠く離れた私たちと関わりのない存在にし、人間の知恵の延長である形而上学の中に鎮座させ、人間の側からの倫理的努力目標のようにしてしまってはいないでしょうか。そこには人間の側に向こうから降りて来てくださった十字架の神様はおりません。
 
最近読んだ「ガラテアの信徒の手紙」では、ちょうど旧約ではアブラハムへ与えた神の「約束」の箇所を読んでいたので、「律法と約束」が分けて書かれてる箇所にとりわけ心が引かれました。そこでは「アブラハムとその子孫に対して約束が告げられた」と語られていますが、この「子孫」には洗礼を持ってキリストに結ばれた私たちも入っていると語られています。ともすれば、その新訳との関わりで罪の認識につながる律法にばかり焦点を当てがちな読み方をしていましたが、この永遠に変わらない神の「約束」の重要さについて遅まきながら知らされる思いがしました。律法を守れない私たち。しかし、初めからそれを神様はよくご存知で、はじめからご計画のうちにこの約束をキリストの贖いと復活、そして再臨に至るまで貫こうとしておられる。この「約束」は神と人との婚姻契約であると教えられた記憶がありますが、「約束」はまさしく神の不変の愛の証です。「山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」(コリントへの信徒の手紙一)聖書のすべての箇所を貫き通す遠点としての主キリストなる神様の愛に感謝したいと思います。