「パウロ 十字架の使徒 青野太潮」(岩波新書)をめぐっての対話

H先生
お借りした「パウロ 十字架の使徒 青野太潮」(岩波新書)を巡って、以下、思い出と感想を混ぜ合わせて少し長く書きました。お読みいただければ嬉しいです。

大学に入ってアルバイトでお金ができたのでカメラを買いました。ズームレンズは高いので望遠180mmと広角35mmの交換レンズを付けました。先生が彫刻を見るときはグッと近寄って見るとも言われましたが、どうも私はその頃から好みは広角レンズ(標準よりちょっと大きくとれる)になったようです。人物を撮るのでも周りの風景を含めて点景としてとる方が好みです。なんでこんなことを話し始めたかというと、今青野先生の「パウロ」を読んだからです。これは恐ろしく望遠レンズだなと思ったからです。しかも三脚をしっかり立てて手ブレを極力防いでキリストの十字架に焦点を当ててると言う感じがします。

 
望遠レンズで美しく絞り込んでポートレートを撮るということに憧れた時期がありますが、どうも私には不得手のようです。聖書の読み方もパウロ書簡だけにはまりこんで読むというのは苦手で、たびたび言うように創世記から黙示録まで複数箇所を読む方が性に合ってるようです。注釈書の力を借りずとも奇跡のようなメッセージの意味を伴った響き合いが毎朝のように自然にあり感謝です。専門家になり得ない素人の読み方と言えばそれまでなのですが。
 
さて「パウロ」ですが、青野先生は「イエスの十字架」は「律法の呪い」からの解放と捉えています。我々はその姿を見つめ続けること、つまり「十字架につけられたままのキリスト」として、贖罪の教義に流されずに心の内側で経験し続けることを説いておられます。私もまだ洗礼を受ける前学生の時、まだ聖書もほとんど読んでないとき、「十字架につけられたままのキリスト」にインスパイアされました。しかし、それは喜びの伴わない認識で、絶望のどん底での認識でした。
 
茶店でクラスの憧れのマドンナ(今は友人の妻になってます)に話したことが思い出されます。こんな自作の稚拙な喩え話をしました。人は水槽の中で泳がされてる金魚のようだ。ただ金魚ではないので苦しくなって下から湧き上がってくる泡ぶくに取り縋って息をしようとする。しかしそれは泡ぶくでしかないから途中で弾けて上の世界にまでは行きつかずにほとんどが死んでしまう。そんな世の泡ぶくに騙されずに底まで行き着いた人が救われる。中途半ぱに人間の理想や夢に乗ってしまうことなく、絶望し尽くさないと本当の救いは訪れないとの意味を込めたものでした。
 
そのとき自分の耳に響き渡ってたのが「我が神、我が神、我を見捨てたまいき」と言う十字架上キリストの言葉でした。その時は心にズシンとくるものの、意味が分からなかったけど、この言葉は青野先生のおっしゃるように、犠牲の死の神聖化とは程遠い、どん底に落ちて絶望した者の叫びであり、そうした呪われた者さえ救ってくださると言う神の究極の愛の意志の表れなのだと思います。確かにそれが成り立つにはキリストが、神から離れては最後には絶望に陥るよう宿命づけられた、まさしく人間である必要があります。
 
確かに青野先生の「律法の呪い」と言う言葉に即して付け加えれば、これは人間の「知恵の呪い」でもあるのでしょう。「人間の側から」知恵を用いて神に到達できると考える者、ヘブライストたちが最後に行き着くところの呪いです。創世記で、人間が悪魔に吹き込まれた知恵ゆえに神から離れることになったことを想起します。まさしくこの人間の知恵の行き着く先は、絶望とその結果の死しかないのでしょう。
 
このどん底に対峙し、そこから救ってくださるのは神しかおりません。だから、その十字架上の姿を間近で見た兵士は「この方は誠に神の子であった」と言ったのでしょう。傲慢な人間のこの究極の絶望からさえ救う神がまさしくおられる。まさしくこの十字架は「人間の側から」ではなく、「神の側から」全ての人を救うという圧倒的な愛のメッセージなのだと思います。
 
青野先生のおっしゃるように、イエスが真の人間であるなら、神のご計画を果たした「強いイエス」はあり得ないでしょう。そこからヘブライストのように律法尊守の教義の延長で贖罪論、復活論を展開する危うさはあります。確かに「今もなお十字架に付けられたままのキリスト」を、見つめ続け保持し続けることは、そうした欺瞞に陥らないために意味があるかも知れません。しかし、一方で私にはそれは普通の人間には難しいことのように思います。キリスト=神が与えたもう万人の救いを、人間の側からの不可能な、高度で難しい倫理的な努力にいつしか、変質させてしてしまう、また別の危うさがあるように思うのです。
 
キリストのこの一回限りの完全な十字架の贖いによって、どん底から本当に救われたと感じる者が、必然的に復活の喜びを感じるようになる、私のような普通の人間の難しくない自然の流れを肯定したいと思います。贖罪「論」や復活「論」ではありません。旧約においても、贖いの儀式をすることで罪が自動的に贖われると言う律法主義的な考えではない、人間の側からの努力では律法は守れないと言う、御子の出現につながる神のメッセージが始めからあるように思います。とりわけアブラハムのイサクを捧げる箇所は何か旧約の中でもこの箇所だけはキリストの十字架の場面と同じような粛然とした透明な静けさがあります。ここを読むと贖いの儀式があって(に規定されて)キリストの十字架があるのではなく、キリストの十字架があって贖いの儀式があるように感じます。
 
まだまだこれはどう言う意味かなと言う箇所があります。またルカにおいてキリストの言からの逸脱を指摘して否定的に書かれているところも、復活の主へ力点を移しつつある自分には気になります。それはまたの時に書ければと思います。
 
Yさん

青野先生の「パウロ」を読まれたのですね。確かの、新約学者らしく、そこには ある思い切った、「理解の試み」提示されていて、とても、興味深く. とても大事な「問いかけ」を投げかけて来る、論考だと思います。

あえて、正統的な見解を離れて、穿った切り口から。一つの「理解」をつかみ取って、主張を展開しておられるように思います。厳しく深い「思索」「探求」「突き止め」を果たしていくためには、このような思い切った「異論」や、「仮説」の試みをぶつけながら、考えることは、とても大事なことだと思います。考えられる限りの、「考え」(自説)を、真っ向からぶつけてみて、初めて、究極の思のものが、滲み出てくるのですから。

今、私が、読んでいる トマスの、スコラ哲学(神学大全)では、論文の、構成の形が決まっていて、まず、この「主題に対して、「信頼できる異論」をぶつけるとい形で論を進めています。

まず「テーマ」が明示される。2項では必ず、それに対する充分「権威ある、代表的な異論」が提示される。そして3項では、今度は、この「異論」に対する、「権威ある反異論」が、提出される。それらを、そして、充分、その異論を踏まえた上で、初めて、自分の考えが提示するという形を取っている。そしてさらに最後には、自分の真理理解を踏まえた上で、先に提示した「異音」や「異論に対する自分の考えを論述する」 全部が、見事にこの形で貫かれている。

ただ、スコラ哲学での「異論との対峙」は。ただ前論に対する「否定」や「排除」だけを意味しない。提示された異論の中の多くを理解し、認め、受け入れさえしたうえで、幾つかの「違う点」を、鮮明に指摘する。こういう取り組み方は、きわめて、穏健で、建設的なものに思える。

青野論文を読みながら。そういう。読み方を、頭をよぎらせていました。

贖罪の究極のメッセージに関係するテキストであるだけに。 この、投げられた「問いかけ」を、しっかり受け止めて考えることはとても大事ですし、よい「問いかけ」だと思いますが。このまま、受け入れることができないなと思いながら読みました。   KH

 
H先生
 
早速のご返事ありがとうございます。私などには理解不可能な深淵かつ膨大なトマス神学の論理構造が、先生のお話でほんの少し分りました。伝道のための説教と言う観点に立てば、学者のように、神に対してニュートラルを保ちつつ、自分の思考において、聖書の言葉の解釈や評価の可能性を論理立てて示すのではなくて、そのときどき、語る人にも語られる人、どちらの心にも入る神の言葉を見極めることが必要なのだと思います。ただ見極めるのには、説教者のうちに、ここに神がおられると言う経験的確信があり、その神が真の評価者として聖霊なる神として働いておられると受け止める心(信心)があることが大事なのでは。先生のメールを読みながら、学者と伝道者の違いについて、そんなことを考えていました。
 
Yさん

語り掛けた「言葉」と「思い」に対する。

信仰的な実存から、生み出される、反応と対応を 大事に受け止めました。

Y Tと向き合っている時間の継続を感じました。 

深淵で、細密な スコラ哲学 は。「考えること」刺激し。促し鍛えてくれます。

思索の道場のようです。

自分自身の中に、「生きて、事実、この私と、差し向っていてくださる神の、リアリティを、確信しながら、肩にロープを担いで、深い洞窟におりていくような 経験を感じています。

神はおられる。神は生きておられる。その神は、この私と、差し向っていてくださる。 

楚々、事実を 事実として、信じて、その事実の中で生きている。

「その自分」が、いま。分析と、構築の岸壁に取り付いている。そんな感じでトマスを、読んでいます。                

よい「時」を重ねてください。     KH