H先生への手紙 時間は人間にはコントロールできない

「わたしはアルファでありオメガである」という聖書にも何度か出てくる有名な言葉。改めて考えるとこれは「わたしは時間である」というに等しいなと気付いた昨今です。身近な作家の営為を見ても、如何に空間的な制限にとどまってるものに、永遠の時間を注ぎ込めるかが彼らの深層のモチベーションになってるのを感じます。やり方は違ってもその渇きがないと永続的な動力にはならないのでしょう。
 
2次元の空間デザインは人のコントロールのうちにあって修練を重ねれば誰でも一定のレベルに到達できます。しかしこれはあくまでも人間の頭脳のうちに生じる理想の平面的図式化であり、これを超えた、つまり時間を呼び込むとなるとなると学習や修練では到底不可能です。 N氏の抽象的作品も、彼が生きた瞬間の永遠が流れる時間を、絵に侵入してくる言語的イメージを極力配して、色彩と形の純粋な絵画エレメントだけでどう呼び込むかの繰り返しの営為なのでしょう。
 
一方、方法は正反対ですが、Mさんの作品は無意識の造形力によって人間が知り得ない未来の時を呼び込めるかに眼目があります。彼女は図像とタイトル、すなわち絵の言葉によってそれをしようとしています。これは印象派以前の正統的な西洋画の深層の流れです。
 
養老孟司が視覚から脳に入るイメージと聴覚から入る音楽では全くバラバラに入ってくるだけで総合されるところがないが、言語はそれができるというようなことを言ってました。聖書を声を出して読んでいるとそのことを如実に感じます。神が言葉から世界を造ったという意味はここにあるのでしょう。
 
ベルグソン小林秀雄の生々しい邂逅の意味もここにあるのではないのでしょうか。頭の中だけのイデオロギー化した、つまり空間的な図式化した言葉の本来の力を取り戻す営為です。詩の言葉と一言で言えるようなものです。
 
日本のキリスト教は、神が今もおられるという信仰に基づき、聖書の言葉の力を信じてそのまま読むことを忘れているようです。初めに教義という図式があって、それに基づく正しい解釈になってるところがあるようです。立派な先生の説教集に基づき、同じ図式を描けるようにその学習にひたすら費やしてるのでは心躍る永遠の時間は見えません。正統派ユダヤ人がトーラーを頭を振りながら読んでいるそれはどうしてかと問いかけられて、それが頭だけでなく心と身体に入るようにそうしてるのだと答えてる映像を思い出しました。特別そうしようと思わなくてもそうなるのだそうです。
 
昨年暮れ夏目漱石の「明暗」を読みました。読み始めて最初に奇異に感じたのはそれまでの小説は主人公の単一的視点と内面の吐露であったのが、ここでは登場人物が思い思いに語り始めたことです。あの漱石の作品ではお馴染みの謎の女性が内面を吐露して話始めたことも驚きでした。小説の最初の方でドストエフスキーの名前が出てきます。その多声楽的構成が夏目漱石の「則天去私」の内実なんでしょう。私の視角は絶対ではない。それはいいのですが、ただし神がない中での多視点化がどうなるかは漱石には見えなかったのでしょう。これが未完であるのは意味深です。未だにここから出られず混乱する一方の日本を感じます。
 
理屈っぽい妹を耶蘇教と二度も揶揄してるのも目につきました。女性が人格を持って話始めるのはいいけど、やがてこれが女性の自立という思想に結びつき、有島武郎の「或る女」のような、人間の知恵の悲劇に結びついていく日本の近代思想のネガティブな流れを感じさせます。「アンナカレリーナ」を書いたトルストイが「イワンの馬鹿」を書いた意味。彼は少なくとも
頭でっかちで破滅しかもたらさない知識人たちの向こうの世界に立っています。
 
お貸しした久生十蘭彼はドキュメンタリーのように作品を描いています。戦争前後の知らなかった世界があります。こうではないかと思い込まされてた歴史の真実を垣間見たような感じです。漱石のような知識階級の高級な心理描写はありません。旧制中学中退で生きることに必死な人物にそんな余裕はなかったのかもしれません。極限的な出来事が起こってそれに振り回され、ある意味陰惨な最期を遂げる話ばかりです。思い描くような起承転結がないのが現実の人生なのでしょうが。気持ちの良くない変な作家の本をお貸ししたのではと後悔しております。
 
コロナ騒ぎはこれまで依拠していたいろんなことへの信頼を壊してしまいました。世の中はほとんど嘘で成り立っていたと思い知らされました。それは偶像崇拝と偽預言者に翻弄される末期のイスラエルそのものでありました。一方で、想像できないほどのパラダイムチェンジが起こりつつある。だけど利害でガッチリ結ばれてる人たちは、今は「陰謀論と言う便利な言葉で打ち消し、安心を買うしかないのでしょう。神の主権が取り戻される時を祈りたいと思います。
 
死という全ての人の終局点から出られない私たちですが、復活というのはこの点をずらすことだと最近思いました。それを主が成し遂げてくださった。そのことにによってこの世にあっても喜んで生きることができる。遅まきながらそう思いました。