聖書覚書 2025年11月30日待降節、礼拝説教から
ヨハネによる福音書 1章 43-51節
その翌日、イエスはガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「私に従いなさい」と言われた。フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。フィリポはナタナエルに出会って言った。「私たちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。ナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。ナタナエルが、「ナザレから何の良いものが出ようか」と言うと、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。イエスは、ナタナエルがご自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」ナタナエルが、「どうして私を知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「私は、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。それよりも、もっと大きなことをあなたは見るであろう。」
さらに言われた。「よくよく言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」
イザヤ書 42章5−7節
天を創造し、これを延べ/地とそこから生ずるものを広げ/その上に住む民に息を与え/その中を歩む者に霊を授けられる方/主である神はこう言われる。
主である私は義をもってあなたを呼び/あなたの手を取り、あなたを守り/あなたを民の契約とし、諸国民の光とした。
目の見えない人の目を開き/捕らわれ人を牢獄から/闇に住む者を獄屋から連れ出すためである。
イエスは、生活の場に入り込んで来られる。生活の只中にこそ、神はおられる。そこでイエスは「私に従いなさい」と言われる。この言葉は取税人であるレビにかけられた言葉と同じ。二人ともイエスの招きに応じて、直ちに従うものとなる。ナタナエルはユダヤの信仰に生きる者であった。彼は「ナザレから何か良いものが出ようか」と言う。救い主はベツレヘムから出ると信じていたからである。これに対しフィリポは「来て、見なさい」と言う。イエスは別の箇所で「来なさい、そうすれば分かる」と述べるが、これはそれと同じ言葉である。イエスに従う者は、イエスの後をついて行き、イエスと同じことを語るのである。フィリポもそうであった。人間の考えでイエスの先を行こうとする者は失敗する。
「いちじくの木の下にいた」と言うのは、フィリポが律法を学ぶことに熱心であったことを示す。律法は本来否定されるべきものではない。そこには神の御心がある。否定されるべきは人間の考えから間違って解釈することである。イエスはナタナエルを「まことのイスラエル人だ」と評する。対してナタナエルは「あなたはイスラエルの王です」との信仰告白で答える。イスラエルの王と言う言葉は、この箇所と12章13節にしか出てこない。これと対照的な言葉が「ユダヤ人の王」と言う言葉である。十字架かけられるイエスに投げかけられたのがこの言葉で、まさしく信仰を拒む、不信仰を表す言葉として使われている。「もっと偉大なことをあなたは見ることになる」。それは「はっきり言っておく」(アーメン、アーメン、私はあなた方に言うの意で、イエスがこれから語られることがとても大事であり確かであることを示唆する)と言う言葉に続いて、「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」と述べる。その階段は、イエスご自身であることを意味し、まさしく、天と地を繋ぐ仲介者になられることを述べられているのである。ここにあげた旧約イザヤの言葉も、この福音の光を通してこそ、初めて瞼を開いて読むことができる。
キリスト生誕の絵画(Fra Angelico 1387(?)-1455)
マリアの衣服=青色。白=栄光。緑=それを纏う者に命を与える。

H先生へのメールから 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」
信心に一致する信仰
Tennessee Waltz Elle & Toni
コロナ後、従来のスターシステムに乗らない、肩に力が入らないところから新しい自然体の音楽のウェーブが起こってきている。YouTubeを舞台に。まずこの二人は自分たちが心地よい環境で音楽を楽しんでいる。そのことが自然に伝わってくる。聴いてるうちに二人とともに歌い出してる自分がいる。まさしくそれでいいのだ。このスタイルが商業主義に呑まれずに続くことを祈る。
洋楽はカチッとした音の構築があって、それに歌詞がついてくるって感じだけど、この二人を聞いてると初めにナラティブ(語り)があってそれにアコースティック音がついてきてるように思う。この流れは世界的に注目されてるJポップと同じ。Jポップの先駆けのハッピーエンドなんかは洋楽のロックの音とリズムにいかに歌詞を乗せるかに苦労した。
しかし、それから50年、歌詞から自然で日本独自のユニークな音の流れが生まれるようになった。ここがJポップが世界でも受けている理由なのだろう。ナラティブから歌が生まれる万葉集から始まる和歌や俗謡の伝統に一見ユニバーサルな現代の衣装を着つつ回帰しつつあるのだろうか。そんなことまでこの二人の演奏を聞きながら考えていた。
「パウロ 十字架の使徒 青野太潮」(岩波新書)をめぐっての対話
大学に入ってアルバイトでお金ができたのでカメラを買いました。
青野先生の「パウロ」を読まれたのですね。確かの、新約学者らしく、そこには ある思い切った、「理解の試み」提示されていて、とても、興味深く. とても大事な「問いかけ」を投げかけて来る、論考だと思います。
あえて、正統的な見解を離れて、穿った切り口から。一つの「理解」をつかみ取って、主張を展開しておられるように思います。厳しく深い「思索」「探求」「突き止め」を果たしていくためには、このような思い切った「異論」や、「仮説」の試みをぶつけながら、考えることは、とても大事なことだと思います。考えられる限りの、「考え」(自説)を、真っ向からぶつけてみて、初めて、究極の思のものが、滲み出てくるのですから。
今、私が、読んでいる トマスの、スコラ哲学(神学大全)では、論文の、構成の形が決まっていて、まず、この「主題に対して、「信頼できる異論」をぶつけるとい形で論を進めています。
まず「テーマ」が明示される。2項では必ず、それに対する充分「権威ある、代表的な異論」が提示される。そして3項では、今度は、この「異論」に対する、「権威ある反異論」が、提出される。それらを、そして、充分、その異論を踏まえた上で、初めて、自分の考えが提示するという形を取っている。そしてさらに最後には、自分の真理理解を踏まえた上で、先に提示した「異音」や「異論に対する自分の考えを論述する」 全部が、見事にこの形で貫かれている。
ただ、スコラ哲学での「異論との対峙」は。ただ前論に対する「否定」や「排除」だけを意味しない。提示された異論の中の多くを理解し、認め、受け入れさえしたうえで、幾つかの「違う点」を、鮮明に指摘する。こういう取り組み方は、きわめて、穏健で、建設的なものに思える。
青野論文を読みながら。そういう。読み方を、頭をよぎらせていました。
贖罪の究極のメッセージに関係するテキストであるだけに。 この、投げられた「問いかけ」を、しっかり受け止めて考えることはとても大事ですし、よい「問いかけ」だと思いますが。このまま、受け入れることができないなと思いながら読みました。 KH
語り掛けた「言葉」と「思い」に対する。
信仰的な実存から、生み出される、反応と対応を 大事に受け止めました。
Y Tと向き合っている時間の継続を感じました。
深淵で、細密な スコラ哲学 は。「考えること」刺激し。促し鍛えてくれます。
思索の道場のようです。
自分自身の中に、「生きて、事実、この私と、差し向っていてくださる神の、リアリティを、確信しながら、肩にロープを担いで、深い洞窟におりていくような 経験を感じています。
神はおられる。神は生きておられる。その神は、この私と、差し向っていてくださる。
楚々、事実を 事実として、信じて、その事実の中で生きている。
「その自分」が、いま。分析と、構築の岸壁に取り付いている。そんな感じでトマスを、読んでいます。
よい「時」を重ねてください。 KH
H先生への手紙 時間は人間にはコントロールできない