救い主を前に呟いた男 ポンテオ・ピラト

尊敬する老牧師に送った手紙をここに再録させてもらいます。
 
貴重な感想までいただき本当に感謝です。前に先生のメールを読んで、関連することで聖書に基づく感想めいたものを書いていました。先生に送るのはおこがましいと思って、一度送るのを留保したメールですが、少し直して送らせていただきます。
 
「知識」については哲学への興味とともに、ずっと、今もそしてこれからも考え続けるだろう主題です。それと関連して日曜日ごとに唱和する「使徒信条」に「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」とありますが、ここを読み上げるごとになぜピラトなのかといつも思います。
 
使徒信条の中には人間の名は人となった神イエスキリスト以外には、マリアとこのピラトしか出てきません。マリアが入れられている訳は、神への全き従順ゆえに、そして神の約束とダビデの家系との繋がりゆえによく分かります。しかし、ピラトはなぜここに入れられたのでしょうか。対象的にキリストを「苦しめた人物」なら、ヘロデ王や大祭司カヤパなどの方がより適切だったのではないでしょうか。
 
しかし、ピラトです。ピラトでなければならないのだと思いました。妻の強い懸念もあって主を十字架にかけることはできるだけ回避したいと思っていたピラト。しかし、民衆の強い要望を受けて思ってもいなかった裁断を下さなければならなかったピラト。そしてこの決定には自分の罪はないと手を洗ったピラト。ローマ帝国ユダヤ総督の地位まで登り続けるだけの知恵と教養、そして誰よりも優れたバランス感覚を持った人物だったのだと思います。難しい地域であるユダヤの総督になったぐらいですから他に優れて有能でもあったのでしょう。それが結果的にキリストを苦しめた人物の代表として歴史に名を残してしまった。まさに貧乏くじを引いたとしか思えない不合理のように思えます。
 
この謎を解くヒントを尋問のためキリストと出会ったときのピラトの言葉と姿の中に見つけました。彼はキリストと面と向かいます。しかし、キリストの姿にはかってモーセが出会った輝く神の姿の片鱗もありません。嘲弄され、いばらの冠を被せられた哀れな最もみすぼらしい姿です。当然このような男がユダヤ人の王であり救い主なわけがない、頭がどうかしている可哀想な男だ、と思ったに違いありません。「・・わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。・・」。これに対し、ピラトが最後に発した言葉が次の言葉です。ここを読むごとにいつもハッとさせられます。
 
「真理とは何か」。つぶやく彼の眼中にはもはやキリストの姿はなかったでしょう。目の前に真理である救い主がいるにも関わらずです。聞く耳をもたない彼は、目をそらして「真理とは何か」と、ギリシア時代からの哲学の主題に深く思いめぐらしているのです。彼に象徴される、人間の力でどうにかなると思い続け、考え続けている知恵ある者がついにはキリストへの信仰を持つ時、それが本当の終わりの時なのかもしれないと思います。
 
日課の聖書読み、旧約は「箴言」にかかりました。聖書は知恵を否定しているのではない。順番が問題なのだと思います。まず「鳩のごとく素直に」全能なる神に委ねて、その後「蛇のごとくさとく」大いに知恵を働かせてよろしい。これは箴言の「神を畏れるは知識の元なり」との言葉とも響き合っているように感じます。柳宗悦のコレクションとも関連して、幕屋を作るために神が「心に知恵のある者」を職人として選んだというのもとても面白く感じます。信仰とこの世の知恵のバランスをどこかで考えて、結局は神を消去し人間の知恵を優先させてきた不信仰な自分であったがゆえに、何かを成就することからも遠ざけれれてきた自分であったのかもしれません。
 
「あなたは全能であり、み旨の成就を妨げることはできないと悟りました」ヨブ記42章