Tさんへの手紙

妻がパートに出かける前に、キッチンの隅っこで毎朝声を出して聖書を読んでいます。現在、旧約はエゼキエル、新約はヨハネ福音書です。神の言葉を人間の言葉に変えてしまう、有害な釈義書に頼らなくても、旧新一緒にただ繰り返し読むことで言葉がひびきあい、これらが紛れもなく一つの聖書であり、神の変わらぬ愛に貫かれていることが自ずと分かって来ます。

昨日今日と読んだヨハネ福音書の箇所で主が捕縛される前に語った言葉として、「すべての人を一つにしてください」「私たちが一つであるように彼らも一つになるためです」「彼らが完全に一つになるためです」と、何度も一つという言葉が出てきます。この一つであることを分離する働きは、全て反キリストであると思います。

Tさんがおっしゃるように旧約と新約を分ける、イスラエルと異邦人を分けるなど本来一つであるものを分離する悪魔の実に巧みな働きは、万を超えるプロテスタント諸派セクト)の有様を見ても明らかです。私の教会は改革派の教会ですが牧師が「信仰告白に基づく教会」というのを標榜して熱心に動いています。しかし、これはやはり人間の側からの応答であって、その内容が間違っていなくても、これを先に立てて教会を形成しようというのは、人間が生み出した思想を教会の頭石とする、おかしな考えだと思っています。

ペテロもイエスの前で立派な信仰告白をしましたが、三度否定する結果になっています。復活したキリストは、このペテロに三度愛するかと尋ねます。これは十字架と復活によって神が成し遂げられたことを確かめる、行為であるように思います。人間の側の信念、思い込みによる告白など全能なる神は全く信用していないのです。「誓うなかれ、然り、然り、否、否と言え」とあるではないですか。

ただ、この考え方が今もインテリ・クリスチャンの間に権威を持ち、数多くの著作とともに信奉者を持つ、竹森満佐一牧師のような、高名な牧師の言に基づくゆえに、とてつもなく厄介です。最近、カール・バルトが「教会教義学」の冒頭で、ここで述べたことは、後年改編可能であると書いていることに気づき、まだ、こちらの方がマシだなと思いました。しかし、そう言ってもそれが反証可能な哲学ではなく、やはり世の中では神学という特権的哲学の枠に収まって、極東日本では無闇に崇め奉られている現状は、とても問題です。

今はTさんがおっしゃるようにカハール、神によって呼び集められた一つの民がいるのみだと思っています。一方それが見えざる教会であるという神学の便利な言葉を捨てられないのも事実です。そしてこの世の見える教会の普通の人の中に、濃厚に呼び集められた人がいるのも事実です。

私のなくなった母も教会の集会に通い、熱心に竹森牧師の著作を読んでいたので私の書棚にも数冊ありますが、その特徴は聖書と違っていくら読んでも、なんだかぼんやりして心の真ん中に入ってこないことです。これは要するに、あくまで人間が頭の中で考えた二次資料で、心を啓発する真理ではないからだと思います。これを基準として信じ込む覚えこむ、竹森牧師の頭の図式を刷り込む行為は、ちょっときつ言い方をすれば一種の洗脳だと思います。

それが宗教改革以来の長い歴史の中で、闘い取られ確かめられてきた貴重な遺産であると言っても、これを聖書より先に置くなら、有害なドグマにしかなりません。400年のエジプト生活で見に染み込んだ偶像崇拝の伝統習慣から自由にするために、神が40年の荒野の旅を与えた、しかし、神と心が一つでカナンの地に入ることができたのはカレブとヨシュアのみ。その後も「神は生きておられる」との言葉を発して繰り返し現れる預言者に、全く耳傾けなかったイスラエルの人々はまさに我々の現在の姿でもあります。

しかし、時間と空間の枠に収まらない全能の神は、最初の最初から私たちの心のうちに、救いをすでに完全に成就してくださっています。しかも、罪のゆえになかなかそこにアクセスできないでいる、私たちの内に、聖霊なる神として宿って、「旧い皮袋」ではなくて、神によって「新しく備えられている皮袋」を使って、神からの道を歩むよう働きかけてくださっています。そのことに感謝です。

さて、私は先生でもなんでもない、わずか5万円ちょいの国民年金と管理人のパートで、ほそぼそと生きている者ですが、最近、忙しくなくなる5月から、イスラエルからネットを通して発信されているモーゼ五書、トーラーをヘブライ語で読むコースに加わる予定でいます。それまで、せめてヘブライ語のアルファベットをわかるようになりたいと、今自学自習をはじめました。私の盲を開いてくれた、パウロのテトスの手紙の冒頭、「信心に一致する真理の認識」である信仰を与えられるために、「真理の霊」(ヨハネ)=聖霊なる神に支えられて、68歳のジイさんであまり頑張るという言葉は使いたくないのですが、そして途中で投げ出すかもしれませんが、最後のトライをしたいと思います。

思えば、震災直後、今は閉じている東北の小さなうちの店に4組のイスラエル人旅行者が友達のつながりで突如現れ、また、Tさんのヘブライ語の聖書についてのブログを読み始めたのは不思議な出来事でした。