橋本治が死んだけど、それで‥‥

生前は特に熱心なファンではなかったが、何となく気になる作家ではあった。書棚を探ると文庫本が2冊(「ロバート本」「二人の平成」)、単行本(「三島由紀夫とは何者だったのか」「宗教なんて怖くない」)、全集から一冊(「窯変源氏物語1」)のみで、「窯変源氏物語」は全く手を付けてないし、「三島由紀夫とは何者だったのか」は一応読んだが、粘っこく展開している論理には理解できないところも多く、以前これについてはブログで取り上げたものの、まだ消化不良の状態。しかし、雑誌の特集(例えば芸術新潮ひらがな日本美術史特別編など)など軽いものを加えるなら、結構読んでいた方だと思う。

橋本治は、日本の大学知識人の通例である西洋の借り物の図式や言葉に飛びつくのではなく、これは何だろうと思うことの意味を、彼が共通性を語った釈迦やデカルトのように(「宗教なんて怖くない」)、自分の言葉で行間を飛ばさず散文的に執拗に考え抜こうとした人で、亡くなった後の養老孟司の適切な人物評によれば、稀に見る「丈夫な頭脳」の持ち主であった。だから、読む人間に同等の思考を強いる文章で、同じ丈夫な頭をしてないととてもついていけないということにもなる。しかし、観念的かというとそうではなくて、全て東京下町で育まれた作家のリアルな直感の裏打ちがあって論理を展開していくタイプだから、その直感的なとっかかり部分がわからないのが原因で、訳がわからない結果にもなる文章でもあった。

亡くなってから、対談だからさっと読めるだろうとパート先に「二人の平成」を持ち込んで、仕事の合間に読んだ。少し下の世代になるのだろうか、今となっては懐かしい、東京山手風のちょっとスカしたお嬢さんインテリ批評家、中里翠とのやりとりは二人の間の微妙なズレも含めて、とても面白く、著作では分からなかった橋本治像が浮き彫りになった。読んでいるうちに、ああそうかこの人はずっとたった一人「ノンセクトラディカル」で闘っていたのかと思った。既成の価値へノンを突きつけた全共闘運動に、何か意味があるとしたら、橋本のような人物や生き方を生んだことだと思う。

現実の全共闘運動は、「止めてくれるなおっかさん、背中の銀杏が泣いている」という、かつての有名な橋本発案になる東大全共闘のキャッチフレーズが正直に語るように、「根源的(ラディカル)」に考えることを表向きは標榜はしていても、アナーキーな情念に使嗾されていただけではなかったのか、と今になって思う。「ここで乗らなくちゃ男がすたる」という任侠映画が流行ったのもむべなるかなだ。その中にあって、老成した大人然としている人間なんて鼻持ちならないし、不正直であったということで、当時のシンパであった自分も含めて、橋本同様幼稚で愚かしかった者たちをかろうじて弁護しておこう。

運動の実質は、橋本が言うように、火種となった東大医学部の教授会が理不尽な決定に対してチョコっと頭を下げれば簡単に蹴りがつくはずのものであったのに、当時の権威主義的な教授会には、それさえできなかったと言う、とてもアホくさい現実。だが、その結果、全国津々浦々の大学まで全共闘の嵐が燎原の火のごとく広がってしまったのは、東大の教授連にはもちろん、誰にも分からない因果に基づく時代の波に巻き込まれていたとしか言いようがないことだ。これは戦争責任を問われた小林秀雄の答えとも通じる結論でもある。

訳も分からず心情のみに依拠した政治素人の運動である全共闘運動は、70年を前に幕を閉じ、それを担った者たちはどこかに消えてしまった。三島由紀夫とは違って、祭りの終わりとカッコよく心中できなかった大半の凡庸な者たち(生活を肯定する立場からすれば、ある意味マトモに転向を遂げた者たち)は、表街道であれ裏街道であれ、現実にはサラリーマンになって行くしかなかった。

一方で、運動の行く末は、特定のイデオロギーを信じて、その狭い範囲内で短絡的な行動原理に直結させ、ある意味命を賭け覚悟を持って運動に取り組んでいるように思えた党派に担われていった。とてつもない馬鹿か、そこからちょっと利口になって老獪なマキャベリストとなった一部は、その後、政治業界、つまり既成政党に潜り込んで自己実現を果たそうとした。こうした人たちがマスコミに出て全共闘世代と呼ばれて批判される人たちの実質だ。

さて、歴史の中で幾度となく性懲りもなく繰り返されて来たように、パルタイたち(忘れ去られた倉橋由美子の言葉をあえて使う)は小さな差異に基づき内ゲバを繰り返し、赤軍派のようのに最も過激にイデオロギーを実行的に追い詰めた党派は、それゆえの自閉性に基づき最も凄惨な結果を導いてしまう。正義への純粋病は自殺か殺し合いになる。これは、無限否定の不毛の道かもしれないが、思い込みを嫌った橋本流真正ノンセクトラジカルの本来的な方向性からすれば、正反対の道筋であった。橋本治のタフさというのは、社会との関連を絶たず、しかも経済的には困難な文筆一本の自営業で、この狭い道を自力で生涯貫き得たということでもある。 

しかし、橋本治の時代は、小林秀雄が生きていた時代とは違う。そこには社会的には少数者ながら、そこにいる限り尊敬と食い扶持を得るに十分な知識人の寄り合い(これを文壇と言う)があった。受験問題が小林秀雄初体験の高校時代の我々には、小林は難解問題で受験生を苦しめる「困ったちゃん」のイメージでしかなくなっていた。続く吉本隆明は、知識人が前衛と称してまだ何らかの役割を果たしうると思っていた幻想を打ち砕いたが、そうした否定が機能しうる時代も政治の季節の終わりとともに過ぎ去ってしまった。吉本の後半生は、橋本の時代とクロスオーバーしていて、コムデギャルソンを着たちょっとファニーな吉本の姿を見させられることにもなった。「情況」の人が大衆化時代の訪れとともに「トレンディ」の人に転向したかのような姿は、埴谷雄高のような拒絶とまでは行かないがちょっと悲しかった。

橋本が活躍した時代は、TVなどマスメディアが支配する、大衆社会がすでに社会に根付いていた。彼はその変わり目は1974年だったと言うが、それは私の個人的な感触と一致するところだ。「ロバート本」に、テレビ初出演の時、何を着て行こうかと思案してド派手な服装で出演した、とあったが、橋本さえ引っ張り込まれた、思い出すのも嫌な軽薄短小の時代だったなあと思う。ちょっとディープなことを言うと「ネクラ」の烙印を押されかねない風潮が一気にやってきた。そう言う中で自分とは言うと、もっぱら美的隠遁者澁澤龍彦に一時逃避するしかなかった。(今思うと澁澤というのも、本人の力以上に随分と時代の中で演出された存在だったと思うが。)

サブカルチャーに目配せした桃尻本やロバート本は、このバブル時代と称される時代の遺産といえる。だがそれは自営業者の身過ぎ世過ぎの仮の姿であったのだろう。本筋は粘っこいノンセクトラディカルの真理追求者であった。俗界に身を置いて彼は二刀流で孤独な戦いを戦ってきたのだ。同時代の発言者に内田樹がいるが、彼はあくまでも生活が保証された大学の先生である。(今は退職されたようだが)だから「そんなこと僕知ってるよ」とばかりに、文章力だけに任せて、専門外のことも長々しく軽々しく書いてしまう才だけで、彼には深く心に入ってくるものがない。バブル時代の海外渡りの言説を振り回して若者の教祖となった多くは、結局は大学の先生に収まって、今やその本を読み返す者とてない状態だ。現在はレアな趣味だけが持ち味で枯れた隠居老人になりかかっている泉正人の方が、何の影響も(悪影響も)与えなかっただけまだ許せるかもしれない。

最後に、オウムについて鋭い分析があり、後半部についてちょっと異論もある「宗教なんて怖くない」について書きたいと思うのだが、長々と書いてきて少々疲れたのでこれについて書くのは後に譲りたい。ご容赦。