峠の茶屋 ヨネジーの覚書

峠の茶屋でのゆっくり一服どころか、茶漬けを掻き込んで次の目的地に向かう飛脚さながらの人生。90パーセントがカスかもしれないけど(娘に言わせりゃ100%カス)息が続く限り書き続けていきます。

足軽の住んだまち

私の今住んでいるところはかって足軽が住んだ町である。江戸初期の地図を見ると、うなぎの寝床のような間口の狭い土地が袋状の土地を綺麗に割って配置されている。当時の建物は全く残ってないが、土地形態にその面影が残っているところがあり、わずかに当時を偲ばせるよすがとなっている。戦乱の世が終わり、ここに移ってきた殿様がそれまでついて来た足軽に褒賞として与えた土地である。殿様としてみれば今まで苦しい中ついて来た、足軽といえ忠義な家臣を解雇することはできなかったのであろう。

しかし、おそらく平和な世にあっては余剰人員だったはずだから、足軽に与えられたのは最低の扶持であっただろう。足りない分は各々果樹を植え、畑をつくって賄うようにというお達しが出ている。近所のおそらく唯一と思われるこうした足軽のご子孫であるお年よりに聞くと、妻は髻を結ぶ紙縒りづくりの内職をしたりして乏しい家計の足しにする、そういうぎりぎりの貧乏暮らしであっただろうということであった。これはどこの藩の下級武士でもその生活実態は似たりよったりで、「武士は喰わねど高楊枝」というようなやせ我慢に近い武士としての誇りはあっても、水呑み百姓と変わらない、あるいはそれ以下の生活を強いられていたと言って良いだろう。

しかも脱藩はご法度である。今ならブラック企業に、終身雇用を餌に食うや食わずの給与で生涯縛り付けられている状態を想像したら良い。その仕事はお城ができたらその警護役が主な内容であったと先のお年寄りが言っていた。もっと上級の武士なら日が昇り日が沈むまでお城に登城してのお勤めだったのだろが、こうした下級武士には夜間警備のような今でいえば時間外の辛い仕事ばかり割り与えられていたかもしれない。郷土史家の本を読むと、江戸初期にたびたび起こった下級武士の反乱について書かれている。重臣達が居住する地区の道路開削に従事させられていた一団の反乱もそのひとつである。

足軽といえど曲がりなりにも士分のはずである。戦国時代には活躍のいかんによっては重用されることもあったであろう。それが城普請を始め、城下の整備に毎日駆り出されて、土を掘ったり、もっこを担いだり、汗みどろになって働かされていたものと思われる。言うならば土方だ。だから相当の不満やストレスがあったのだと思う。しかもこれは戦陣での架設工事ではない。今も道路の路肩に残る大きな土留めの石組みを見ると、大変きつい仕事であったと想像される。ちょうどその時、馬に跨って上級武士が通ったのだという。ふと見ると一人背を向けて寝そべっている者がいる。「不埒者!」というわけで馬上から槍で突いた。これが反乱の発端となった。

寝そべっていた者とて、サボっていたのではなくしばしの休憩をとっていたのかもしれない。それを上級武士といえど理由を聞く間もなく槍で突くとは無礼千万と、日頃から蓄積していた鬱憤がこの出来事を機に爆発した。2百人近くが一斉に土方仕事を投げ出して、「待遇改善」を掲げたかどうかは分からないが、近くの寺に立てこもった。折悪く殿様は留守であった。留守番役は、輝かしい戦歴を持つ家老職が担っていた。平和な時代となって間もない時である。まだ戦時の猛々しさが残っていたのかもしれない。すぐさま鉄砲隊を繰り出して寺を囲み、砲火を浴びせかけて全員殺害した。

その他にも徳川綱吉の時代、職を失った鷹匠たちが城下を見下ろす山に立てこもったこともあったようだ。上のような最悪の結果にはならずとも、その結果、首謀者は切腹、あとは所払い、言うなれば首ということになったのだろう。運良く残った者とて、薄給に甘んじ、赤貧洗うがごとくの暮らしが江戸の終わりまで続いたのだと思う。それぞれ果樹を植えて養いの足しにするようにとのお触れが残っているぐらいだから、藩主も窮状は承知していたのだろう。お内儀たちは丁髷のもと取りを束ねる紙縒づくりに精を出して家計を支えていた、という話も足軽のご子孫であるお年より伺った。

さて今では考えられないくらいの貧乏暮らしだったと思うが三百年近く続いた太平楽にも終わりの時が来た。(続く)