神なき時代の信仰

心で受け止めたことを、文章にするときにはとりわけ慎重でなければならないと思う。言葉にしようと思考する過程で脳回路が最初とは別の方向へとずれていってしまう。罪が派生する過程を慎重に避けつつ思考するのは至難の技と思う。この思考の道を正しく導いてくれるのは神の言葉と祈りしかない。「取りて読め!」。ルターに囁きかけたと同じ聖霊なる神の促しに従い、聖書の言葉を座右において常に書き始める必要があると戒めつつ。

信仰は、聖書に述べられている二つの「事実」、エジプトから選ばれた民イスラエルを解放し、約束を与えた神がおられるという「事実」(「わたしは主、 あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」)と、人となられた神による贖罪と復活の「事実」に依っている。これは神話や寓話ではなく、まさしく人類が歴史上で神と出会った中心的事実として聖書に書かれている。ヘブライ民族が極めて現実的な民とされるのも、この事実をベースにして何千年もの間、そのことを子々孫々伝えてきたからだ。他の宗教のように人間が神のために何かをなしたのではなく、人間のために救いをなしてくださった神がおられるのである。これは旧新約を通して、繰り返し語られる事実であり、われわれを愛を持って罪から救ってくださった神がおられるという「一つの真実」を物語るものでもある。

この信仰の要にある二つの出来事は、ヘブライの民から切り離した新しい宗教として(ローマの国教となるうえでのひとつの要件)、この事実の証言者である使徒がいなくなり、ギリシャ哲学(エジプトの知恵にさかのぼる)の影響も受けながら、ヨーロッパでキリスト教が成立していく過程で、抽象的で難解な「神学」に置き換えられていく。その中で神が約束された永遠の契約を変えられたかのようにひとつの聖書を旧約、新約と分ける考え方も出てくる。(マルキオン)キリスト教成立の過程で、またその後も、この二つの事実を要とする聖書のみ言葉を、そのままわれわれのうちに等しく宿っている聖霊の働きによって受けとめるのではなく、それを頭だけで解釈するということをし始めた時に、本来の信仰に基づく思考からずれてしまう、その中で、頻繁に起こる神学論争、そして本来ひとつのものを分ける教派=セクトへの分裂が起こってくる。しかし、こうして出来たイデオロギーや体系には賞味期限がある。

近代になって、ヨーロッパでは人間から遠く離れた神を前提に、人間の力だけで世界を収め発展させていくという「理神論」が影響を強めていく。この「遠い神」はまだキリスト教の中にあったが、やがて「神の不在」につながっていく。つまり十戒の第一戒である創造主なる神の否定。ここから何が生じるか。神という結束帯を失って分節化していく世界の始まり。一方、この混乱した世界をどう収拾するかが人間の哲学上の課題となる。カントは理性という「仮説」を元に「人間の側から」世界秩序の回復をめざした。ギリシア形而上学とつながりを保ったカントの「理性宗教」(「たんなる理性の限界内における宗教」)の中には、「神の側から」の救いの事実、キリスト教信仰の中心をなす贖罪や復活の信仰はない。いわば不信仰が前提となっている。

その歴史的結果を見ると、確かにカントが哲学的に基礎付けた科学の力でテクノロジーは大きな発展を遂げたかのように思える。しかし、そうした人間の進歩と正反対の戦争と国際組織の平和に対する無力化は、理想主義の破綻を象徴している。プロテスタントであるはずのカントの思考のうちにも入り込んでいたニヒリズムがある。牧師の息子ニーチェはこのヨーロッパの教会を覆っているニヒリズムの現実を、正直に述べたにすぎない。カール・バルトの膨大な著作の意味も、広く深くヨーロッパの淵源にまでさかのぼるニヒリズムとその克服にあるのだろうが、別の歴史環境を生きてきてそのことにすら気付かない日本人に、ナチズムとの闘いというポリティカルな視点に矮小化せずに、その全体的真実が捉えられているかどうか。

日本の近代は、250年以上も戦争がなかった江戸時代において、ヨーロッパとは違った独特のしくみで宗教を無力化する中で、きわめて「特異な」発展を遂げた。今も深層ではこの江戸時代に確立された個人なき小集団を争いなく共存させる、ある意味、巧みなしくみや現世享楽的文化を温存しつつ、我々は欧米と同じような近代を通過したかのような錯覚のうちに生きている。明治維新後、急ごしらえでカソリックの制度をまねて天皇を中心にした「国体」を形成して、幕藩体制崩壊の後の国内の混乱を収拾し、対外的には帝国主義の時代に生き残りを図った。しかし、維新を担った元老たちが消えた後は、制度運営の実質的要めを失い、全体を見ての合理的な判断とそれを担う機関がないまま、部分最適化によって無謀な戦争に突入し、敗戦を迎えた。

日本のプロテスタント受容の歴史は、明治の初期に啓蒙思想進歩主義)といっしょに入って来て、それと明確な区別がなされないままでいるところに問題を持つ。啓蒙思想無神論を土台にして、歴史のうちに人間の力で「自由、平等、博愛」の理想を実現しようとした思想。それは信仰とは全く相容れない人間が作り出した思想であり、その結末がどうなったかは歴史が明らかにしている。日本のキリスト教は、この啓蒙思想と武士階級が担っていた儒教(アジア的理神論だと思う)の影響を今もって少なからず受けている。それらの思想は、日本キリスト教団という、江戸時代以来の小集団を共存させる世俗の世界と相似形のしくみの中で、キリスト教信仰の中心であるかのようにして、一定の力を今も保っている。

こうした理想主義の一方で、それが実現できない理想であるがゆえに「罪がある」ということに長い間拘泥しつづけているのも日本のキリスト者の特徴。「信仰において義とされる」を理由に、行いに現れないことを良しとする。しかし、それは私だけが救われればと思う形を変えた自己愛で、私たちを創られた神を無力な方としている。他人を愛することをわたしたちは一番大事なこととして教えられている。いくら努力してもできないことを、それを聖書はできる、罪を完全に贖ってくださったキリストにより、わたしたちのうちにそれができる力がすでに備わっていると繰り返し言っている。教理を頭で理解しても、ただ古いままの私の命を生きているのでは実際に愛することは不可能だ。それができるのは私たちのうちにある「キリストの似姿」を生きることで、と聖書は繰り返し語っている。

そのためには神の愛を感じること。愛を感じるのは頭ではない。心と魂が愛を受け止める。知恵がついていない幼子も母親の愛は分かるではないか。むしろ良し悪しを思い巡らす時、愛は遠のいていく。(サマリア人のたとえ)サムエル記上を先週読み終えた。同じ油注がれたものでありながら、衰えるサウルと栄えるダビデ。どこが違うのか。端的に言えば神を信じる者と信じない者の違い。サウルは二つに分裂した心のまま揺れて、狂気の淵をさまよい、祈れないまま、最後は戦いに敗れ、自ら命を絶つ。ダビデは、一つ心で神への信頼、愛のうちに生きている。罪を犯しても心からの悔い改めがあり、祈りがあるから、神との関係が切れない。このダビデの系譜のうちにキリストが誕生する。

日本のキリスト教は、欧米での近代における変質と輸入段階の錯誤と二重のずれを持って広がった。しかし、それは人間が罪にそそのかされた結果の脳回路のずれである。 私たちにも神の言葉が与えられている。神は人間に心から分かってほしいという熱愛の思いを持ってこの「言葉」を残した。人間に理解困難な難しい言葉を残して困らせようとしているのではない。そこには楽園を離れた人間が再び神とともに暮らすものになってほしいとの熱い思いが込められている。しかし、その言葉をいくら説いてもずらしてしまうわれわれのために、最後にはこの言葉を完全に生きた最初の人としてのキリストを与え賜う。日本に住む者も神に命を吹き込まれ創造された民である。神に与えられた素の心でこの言葉を受け入れる要素は、体系化された知恵の枠組み(アルゴリズム)にがんじがらめにされた欧米人よりあると思う。この可能性については別の機会にまとめられればと思う。

(聖書から)

蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存知なのだ。」(創世記3・4~5)

すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」(ルカによる福音書10章25-37節) 

 そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。(コリントの信徒への手紙一 12章31b~13章13節)