経歴に騙されて本を読むときは

人間の脳力の働かし方は狭い範囲にフレーミングすることから始まる。このフレーミングは信念や感情しか根拠がない。しかし、このフレーミングの範疇で考え抜かれ緻密になった理論はその中においては誰にも否定できないもののように思える。頭の良いほとんどの学者や専門家は所詮このフレーミングの達人。だから一般人はすぐ騙されるが、しかし、何の根拠もないし、あっさり予想を超えた現実の事態に接して崩壊してしまうたぐいのものだ。なぜならそれは頭の創作によるファンタジーに過ぎないから。不幸なのは優秀と言われ続けてきた彼らには自己批評能力が欠けていること。たいていは賢いと思うことが自分を見えなくしている。これを本当のバカという。世の中の知識人はこのバカとずるい人間(それに気づいて演技する詐欺師)の2種類でほとんどを占める。ああ、もう一つあった。詐欺が成功して、ずるいが進化すると偽善にならざるえない。さて、知的エリートの本を読むときは著者はこの3種のどれか?というのがいつも頭にある。

「忖度」という言葉に見る日本人を不幸にする「空気」の存在

最近マスコミで文部官僚が使った「忖度」という言葉がひとしきり話題になった。別の言葉で置き換えれば「空気を読む」ということだろうか。かつて「人間を幸福にしない日本というシステム」(カレル・ヴァン・ウォルフレン)という本がベストセラーになったことがあるが、ここで日本社会を牛耳っているとされている官僚システムを、さらに精神的な面で支配しているのが、この「忖度」=「空気」という存在だ。いうなれば前者のシステムと後者の精神が合体し、二重の圧力で日本人を不幸にしていると言えるだろう。

この見えない「空気」が、先の大戦では日本に悲惨な結果をもたらした。南方戦線での苦難を経験した山本七平は、そこで150万を越える将兵を無益な死へ追いやったこの「空気」なるものの正体を明らかにすることを死者への慰霊として、戦後の表向きの繁栄に目くらまされている日本人の中で孤独な戦いを続けた著述家だが、その営為なぞ蚊に刺されたほどの影響を与えず、その「空気」の支配は今も微動だに揺るがされずに続いているかのようだ。これが変えられない限り日本人は、今度は戦争によってではなくても、また再び同じような破滅に直面することになるとの危懼が山本の著述活動を駆り立てていたと思うのだが。

これは時に「和」という言葉にすり替えられたりもする。日本の企業の社是を調べれば一変に分かると思うが、今もおそらく多くの企業がこの「和」という言葉を取り入れている。これは聖徳太子の十七条の憲法の「和を以て貴しと為す」から来ている、古代からある日本人の美徳と誇らしげに説明されるだろう。しかし、この「和」というのが本当の意味で健やかに成立するためには、すべての人にアプリオリに付与されている「共通感覚」への信頼、ありていに言えば神への信仰がなければならない。聖徳太子の時代には、また少なくても聖徳太子の胸のうちにはそれがあったのだろう。しかし、そうでなければ「和」は個人への抑圧、異分子の排除としてネガティブにしか働かないと思う。

欧米の法は、元来この人間を超えた神の支配への信仰が法的な支配へと延長されたものであろう。だから多くの者が教会から離れた今も、このDNAがあるから法はどこかで神の権威と結びついて拘束力を持っている面があるのだろう。ところが江戸時代の巧みな非宗教化を伴う近代化の過程を経ている日本では、法すらも方便でしかない。だから、やすやすと暗黙の了解のうちに法を無視したことがまかり通ってしまう。中小の企業で働く庶民が直面する卑近な例では、表向きは「就業規則」という法があっても、そして時に行政の指導が入ろうとも、なきがごときになってしまう法の現実を見ることができる。マスコミの力を借りて遠山の金さんばりに悪い経営者を叩いて溜飲を下げれば、ブラック企業がなくなるという単純なことではない。

法的な規制すらもずぶずぶと無効化してしてしまうのは、やっかいなことには従業員の間から立ち上ってくる無神論的「和」の空気だからだ。このある意味ボトムアップの「民主主義」が暗黙の圧力となって、時には従業員を過労死させもし、また、そこまで行かなくても従業員個々の自主性や創造性を奪ってしまう。むしろその中では、忖度が上手な「和を乱さない」人間が生き残って管理職になっていく。そこでは東大出の賢かった人間も、世界にまれな終身雇用のシステムの中で、ずる賢くなることが生き残る道だと悟って、結局は能力的には劣化の道を免れない。だから最終的には馬鹿か、ずる賢い人間という、二分法でしか語れない悲惨な職場環境になってしまう。

こんな企業では、グローバル化の波をかぶればひとたまりもあるまい。そのような企業が生き残るためには、ロビー活動により、常に自由競争に意を唱え既存の利権を守るしかないわけだが、国全体として見れば、この時代に自由競争を閉ざす鎖国は不可能なのであるから、またその特異な後進性は伝統芸能ならまだしも輸出するわけにもいかないから、その行くすえは、官僚支配にますます依存して分配を求め、官僚を太らせる行政国家となり、その結果、国民の生産力は衰える一方で、人々がひとしなみに貧しくなり、今もそうだが国は借金にあえぎ衰退していくの必然のように見える。

 

 

今夜は土筆の天ぷら

やっと春らしい陽気になって、5時起き、娘と妻の弁当作りの合間、朝のウォーキングを再開。見ると河原端に土筆がたくさん顔を出していたので摘んできた。急に暖かかくなって一気に出てきたのだろう。ラジオの語学講座を聞きながら一本一本ハカマをとった。 40分近くかかり面倒くさかったけど、酢を入れて茹でたら美味しそうなピンク色に変わった。今日の夕飯に春野菜といっしょに天ぷらにしよう!

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戦艦大和ノ最期 吉田満

言わずと知れた戦後を代表する戦争記録文学の傑作だが、いつか読もう読もうと思いつつ何10年も本棚で眠っていた。ひとつは漢文体は難しいという先入観があって、知らない漢語に出会うと気持ちが萎えて、2〜3ページ読んではやめを、繰り返していたからだ。それから大和と運命を共にした者たちへの鎮魂はさておき、自画自賛に等しい日本賛美に利用している、頭と心が悪い連中の仲間にはなりたくないという気持ちがあった。それが65歳を過ぎて気分が乗らない仕事の合間、なぜか1日ですらすら読んで、読了した。文学的な感興に流れない分、前に読んだ大岡昇平の「野火」よりいいと思った。

 

著者吉田満は東京法学部でのエリートである。戦争がなければなんの障害もなく官僚になって安楽に人生を終えたであろう、わたしにとっては全くの雲上人である。それが学徒出陣からあの沖縄戦で海の藻屑と消えた戦艦大和の最期に立ち会うことになる。学徒出陣というのは「きけわだつみの声」の印象があってとりわけパセテックに語られることが多いが、大卒の恩恵も受けず、エリートを実感することとは程遠い人生を送ってきた自分には、むしろ東条英機の「これで国民が平等になった」という言葉の方がしっくり来る素直な言葉のように思える。この言葉で東条のステレオタイプの悪者独裁者イメージもちょっと崩れた。

 

なぜなら大学、高等学校に行くのは、日本の人口から見たらほんの耳カスほどの一握りの者たちだった時代である。それ以外の勤労者の若者は、一通の赤紙ですでに中国大陸や南方に飛ばされ、戦況悪化と共に学徒とは比較にならないくらい大量に命を失っていた。しかし、そのことを言葉にしたり、意味付けしたりすることを思いつきもしないし、そもそもそういう能力がない(と思われている)、または無事に帰還したとしても、すぐに生活の苦労に絡みとられてその余裕がない。そういう人たちは誰が救うんだと思う。それは今も変わらない。ブラックと言われる労働現場からの直接の声がないのと同じだ。それを言い立てているのはそんな職場の実情など全く知らない者たちであり、どこかで自分のビジネス(官僚であれ評論家であれ)との関わりを考えている連中だ。

 

これは何も戦争だけではない。あの「社会主義」文学の代表作「蟹工船」を書いた小林多喜二についても言える。その「文学的」な評価は別である。そこに労働者が生きていたリアリティが書かれているかどうかだ。それは小林が官憲から拷問を受けて死んだこととも関わりがない。思想信条を曲げなかった者が書いたものだから、そこに真実がある訳ではない。むしろそういう倫理はイデオロギーと同様、リアリティを描く上で邪魔になることが多い。そうやって読むと、ほんとうに海上での労働とはこうなのだろうか、と疑問に思う。おそらく実際に従事した人に見せたら「ぜんぜん違うな」で片付くのではないか。ここにはインテリであることの高ぶりのバイアスが入っている。

 

戦艦大和の最期」は平時には絶対行かないだろうような場所に行かされたエリートが、そこでした極限の実体験をルポルタージュした作品である。同じ戦記文学では大岡昇平の「野火」が有名だが、文学者らしい高度な描写が散りばめてあって、文学的でありすぎる。これは「蟹工船」にも言える。個人的な感興に流れることを避けようと思ったのが、この漢文体なのだと思う。パブリックな言語としての漢文の持ち味が良く生かされていると思う。ある意味乾いた文体で、読んでの印象はスライド写真をリズミカルに次々見せられているような感じである。

 

良く取り上げられるのは白淵大尉の段であろう。珍しくこの大尉の言を通して、インテリらしい程度の高い批評や思想が垣間見られるところである。彼は大和の必敗を確信し、自分たちの死を意味づけをして、先立って負けることで、本当の進歩を忘れた日本を目覚めさせる先導役となるのだ、と囁くごとく述べる。しかし、いかに高邁な思想を持っていても戦場の死は容赦しない。唯一この作品の中で思想らしきものを開陳した人物である大尉の肉体は、戦闘の初期で、あっけなく直撃弾を受け、一片の肉、一片の血も残さず、飛散する。

 

評論家が好みそうな取り上げ方では、戦後の我々への死をかけて尊いメッセージを残したということになろう。しかし、この段を作者は特別盛り上げようとはしていない。他と同じ最小の文章しかこれに割いていない。次々と仕掛けられる攻撃は、そんな感情など忖度などしない。それがともすると望遠レンズのようにズームアップしてしまう、記憶の歪曲を排したリアルな現実であるからだ。この攻撃の最中では全てが等価で、重大に思えることもトリビアルな一瞬の出来事に変わる。このマシーンのような漢文体のリズムは、そのことをわれわれに実感させる効果がある。

 

トリビアルなことの中には、へー、死と隣りあわせの戦場でこんなこともあるの、というユーモラスな場面もある。小休止の最中、ポケットに入れた羊羹とビスケットに気づき口にれるシーン。ウマシ 言ワン方ナクウマシ とある。または沈みゆく艦の中で、艦とともに渦に呑まれることを覚悟した艦長が、避難する兵が掌中に残していったビスケットをニヤリとしつつ、食うシーン。または波濤めがけて飛び込む寸前、指揮官及び部下共々、洪笑しつつ舷に並び放尿するシーン。または首筋をかすめていった拇指大の弾片をとりあげて目を細めて笑うシーン。こうしたシーンが同じウェイトで他の凄惨な戦闘シーンと並置されているのが、かえってこの作品が思想に歪められないほんものの実戦記録であることを証ししているように思える。

 

 

 

 

 

同じことのくりかえしだが、ちょっと変えてみたら

娘が出勤前にぐちを言う。それに対して何か言ったら、「全然分かっていないよ、あんたは」と乱暴な言葉が返ってきた。「毎日、朝の弁当を作らせていて、なんだ!」と言いたかったが、今日はぐっと押さえた。10年前に亡くなった母親にも同じこと言ってたなあ、とふと思ったからだ。そのときは共感してほしかったのだ、しかし、母親はピントはずれのことを言い娘と同じことを言われた後は、すぐに視線を外して何も言わなくなくなった。それをちょっと真似をしてみた。この辺が母親とは違う芝居っ気だ。黙っていたら娘がトントンと肩を叩いてきた。今日は娘の今の会社への出勤最終日。家を出る前に「私がいなくなってせいせいしたと思うよ。今日は先輩たちにありがとうと言って退社するよ」と言う。「鍛えてくれてありがとうって言ったらいいよ」と私。

みんなに配る菓子折りを持って娘は笑顔になって今日も出勤して行った。