「投射像」について思い出した

こんなエピソードを思い出した。大学の教養課程一年の心理学の講義で聞いた話である。小学校か中学校か思い出せないが、教室で先生が蜘蛛はどのように巣を張っていくのか質問した。すると指されて立ち上がった生徒は教室の天井の一角を見つめるだけでいつまでも答えようとする気配がない。やがて先生はしびれを切らしてお前は何を見てるのか尋ねた。これに生徒は答えたのだそうだ。「先生はあれが見えないのですか、あそこに蜘蛛の巣を張っている蜘蛛が見えますでしょう」と。講義の説明では、これを「投射像」といい、幼少期の子供にこうした像を見る能力が備わっている者が時折見られるということだった。

他の講義内容はすっかり忘れてもこれだけ覚えているのは、私自身、かって幼少期に同じような経験をしたことがあったからだ。テレビもない時代である。当時は子どもは大概9時頃には床につかせられた。ところが昼間夢中で遊んでいた興奮がさめやらずなかなか眠れない。まんじりともせずにいると、まっすぐ見上げた6畳間の天井がスクリーンのようになって、昼間の様々な動く風景が大きく映し出されている。当時は誰もが見えるように思っていたが、そうかあれが「投射像」というのかと、その講義を聞いて宿年の疑問が解ける思いがしたのを覚えている。

通常の我々の認知の構造は、外界を視覚によって捉えて、その映像を水晶体奥の網膜に投影し、それを視神経を介して脳内で処理するという風になっているものと思う。ところが「投影像」は、この逆で、脳内に形作られた映像が水晶体を通して外界に逆投影している見たいなものなのではないかと思う。大抵の者は幼少期を過ぎると「投射像」を見ることはなくなる。その代わり理性によって意識層に構築された現実社会とつながる知識や観念にリアリティをおくことで大人になっていく。しかし稀にこの能力を持ち続ける人がいるのだそうだ。それは天才と呼ばれる人かもしれない。