峠の茶屋 ヨネジーの覚書

峠の茶屋でのゆっくり一服どころか、茶漬けを掻き込んで次の目的地に向かう飛脚さながらの人生。90パーセントがカスかもしれないけど(娘に言わせりゃ100%カス)息が続く限り書き続けていきます。

吉本隆明1968 鹿島茂

吉本に関する本はもう読むまいと思っていたが、書店でついつい手にとって立ち読みするうちに、もっとしっかり読みたくなって買ってしまった。吉本には、1971年に大学に入学したときに初めてふれた。もう全共闘運動は下火で中心はセクトの政治目標に従ったスケジュール闘争に移りつつあった。しかし、まだ高揚した気分は残っていて、クラス内でもときどき討論集会がもたれた。

そんなとき都会で高校時代を過ごした級友たちから出てくるのが吉本のキーワードで、「擬制の終焉」「異端と正系」と言った漢文調の硬質のタイトルが、地方の高校出の自分にはいかにもカッコよく聞こえた。それで下宿の貧しい書棚にも吉本の著作集が並ぶことになった。しかしいざ「共同幻想論」や「言語にとって美とは何か」から読み始めてもまったく歯が立たない。最初の数ページでいつも挫折してしまう。だからそれらは将来目標にしてもっぱら読んだのは、全集の中の短い文学論や政治論を集めた1、2冊だった。よく知られた作家や評論家を見事に切り捨ててみせる、詩人ならではの切れ味の良い喧嘩言葉に酔っていただけだと思う。

吉本は卒業後も折に触れて読み続けていた。バブル時代に入り、一億総中流などという言葉が世に当たり前のように受け入れられていた。実際には決して豊かではなかったが、将来は今よりきっと良くなると誰もが信じられる時代だった。その偽装された豊かさの中でもう政治の季節はすっかり終わっていた。でも吉本は次々生起する出来事についてはどう言っているのだろうと気になって、書店に入っても一番最初に手に取るのは吉本の新刊だった。吉本の批評の対象は、流行のポストモダンの思想家からファッションまで大衆社会の諸相に及んで、やはり詩的な言語による切れ味の鋭さに酔う自分がいた。糊口のために気に染まぬ、泥沼のような仕事に毎日浸かっていても、考えや心まで巻き込まれずに世間から自立して生きていきたいという意志をときどきに再確認するための羅針盤のような存在だった。

この本は吉本読みのばくぜんとした歴史にしっかりとした骨格を与えてくれた。自分にとって、これは吉本から受け取った思想だなあと確かに言えるのは「大衆の原像」しかない。吉本思想の土台となるものとして初期の著作を通して、この本で読み解いているのもこれである。難解といわれる文章の背後に貫かれているもの。共産主義運動の前衛であるインテリゲンチャと啓蒙対象であるプロレタリアという図式に典型的に見られるマルクス主義のバイアスを物の見事に解体し、作家や詩人の文学や思想の出どころをその出自によって解き明かした吉本思想の中心コンセプトを、これぐらい説得力のあるかたちで浮き彫りにした本は今までなかったと思う。著者自身が寒村の酒屋の息子だというのも、同じく根底に下町出身のアンビバレントな感情を背負った吉本自身の思想への理解を助けている。

「大衆の原像」論は、経験を重ねるうちに、誰もが自然に気づかさられ了解可能となる課題だと思う。文卒のダメじいさんもコピーライターのような、望んでもなかった仕事をたよりに生きていかざる得なくなって、この「大衆の原像」という言葉の意味するところが身にしみてわかった。だが、「どんな大衆の生活も、『前衛』党のために存在するのではなく、それ自身のために存在している。この単純な客観的真理は、『党』の亡霊が横行するところ、『党』員の脳髄が過熱するところでは、しだいに影がうすくなる」という常識が通じくなってしまう世界が今も確かにあるのである。自分は頭がいいから人を導く側の人間だと思っている人ほど、見事にこのドツボにはまる。

それはなぜか。そこには「知の遠方指向性」があると吉本は言う。どのような知も現実から離れた抽象化の道をたどり、発展を続け擬似客観世界をかたちづくる自然過程を宿命的に持っているというのだ。生活の座を無視してどのような有効な知もないという単純なことなのだが、逆にそこから離れば離れるほど知は純化され正しいものになるという宗教性を帯びてくる。普通は社会に出ると粉微塵にされる態のものだが、アカデミズムの世界のような特殊な場では、社会経験のない学生という名のフォロワーを次々獲得して、この高等詐欺とでも言ったら良いようなビジネスモデルは決して途絶えることがない。