「忖度」という言葉に見る日本人を不幸にする「空気」の存在

最近マスコミで文部官僚が使った「忖度」という言葉がひとしきり話題になった。別の言葉で置き換えれば「空気を読む」ということだろうか。かつて「人間を幸福にしない日本というシステム」(カレル・ヴァン・ウォルフレン)という本がベストセラーになったことがあるが、ここで日本社会を牛耳っているとされている官僚システムを、さらに精神的な面で支配しているのが、この「忖度」=「空気」という存在だ。いうなれば前者のシステムと後者の精神が合体し、二重の圧力で日本人を不幸にしていると言えるだろう。

この見えない「空気」が、先の大戦では日本に悲惨な結果をもたらした。南方戦線での苦難を経験した山本七平は、そこで150万を越える将兵を無益な死へ追いやったこの「空気」なるものの正体を明らかにすることを死者への慰霊として、戦後の表向きの繁栄に目くらまされている日本人の中で孤独な戦いを続けた著述家だが、その営為なぞ蚊に刺されたほどの影響を与えず、その「空気」の支配は今も微動だに揺るがされずに続いているかのようだ。これが変えられない限り日本人は、今度は戦争によってではなくても、また再び同じような破滅に直面することになるとの危懼が山本の著述活動を駆り立てていたと思うのだが。

これは時に「和」という言葉にすり替えられたりもする。日本の企業の社是を調べれば一変に分かると思うが、今もおそらく多くの企業がこの「和」という言葉を取り入れている。これは聖徳太子の十七条の憲法の「和を以て貴しと為す」から来ている、古代からある日本人の美徳と誇らしげに説明されるだろう。しかし、この「和」というのが本当の意味で健やかに成立するためには、すべての人にアプリオリに付与されている「共通感覚」への信頼、ありていに言えば神への信仰がなければならない。聖徳太子の時代には、また少なくても聖徳太子の胸のうちにはそれがあったのだろう。しかし、そうでなければ「和」は個人への抑圧、異分子の排除としてネガティブにしか働かないと思う。

欧米の法は、元来この人間を超えた神の支配への信仰が法的な支配へと延長されたものであろう。だから多くの者が教会から離れた今も、このDNAがあるから法はどこかで神の権威と結びついて拘束力を持っている面があるのだろう。ところが江戸時代の巧みな非宗教化を伴う近代化の過程を経ている日本では、法すらも方便でしかない。だから、やすやすと暗黙の了解のうちに法を無視したことがまかり通ってしまう。中小の企業で働く庶民が直面する卑近な例では、表向きは「就業規則」という法があっても、そして時に行政の指導が入ろうとも、なきがごときになってしまう法の現実を見ることができる。マスコミの力を借りて遠山の金さんばりに悪い経営者を叩いて溜飲を下げれば、ブラック企業がなくなるという単純なことではない。

法的な規制すらもずぶずぶと無効化してしてしまうのは、やっかいなことには従業員の間から立ち上ってくる無神論的「和」の空気だからだ。このある意味ボトムアップの「民主主義」が暗黙の圧力となって、時には従業員を過労死させもし、また、そこまで行かなくても従業員個々の自主性や創造性を奪ってしまう。むしろその中では、忖度が上手な「和を乱さない」人間が生き残って管理職になっていく。そこでは東大出の賢かった人間も、世界にまれな終身雇用のシステムの中で、ずる賢くなることが生き残る道だと悟って、結局は能力的には劣化の道を免れない。だから最終的には馬鹿か、ずる賢い人間という、二分法でしか語れない悲惨な職場環境になってしまう。

こんな企業では、グローバル化の波をかぶればひとたまりもあるまい。そのような企業が生き残るためには、ロビー活動により、常に自由競争に意を唱え既存の利権を守るしかないわけだが、国全体として見れば、この時代に自由競争を閉ざす鎖国は不可能なのであるから、またその特異な後進性は伝統芸能ならまだしも輸出するわけにもいかないから、その行くすえは、官僚支配にますます依存して分配を求め、官僚を太らせる行政国家となり、その結果、国民の生産力は衰える一方で、人々がひとしなみに貧しくなり、今もそうだが国は借金にあえぎ衰退していくの必然のように見える。