横丁で見つけたインドの紅茶

まちのコンビニの店員のほとんどはいつのまにか、ネパール人やカンボジア人やベトナム人になってしまっている。「いらっしゃいませ」と笑顔で商品を袋に入れ、レジを打つ彼らは、日本ではどのような生活を送っているのだろうか。先般マスコミを騒がせた大相撲騒動で「国技」に根をはるモンゴルコミュニティが明るみに出されたが、彼らも自分たちの暮らしを守るため同じようなマイナーコミュニテイをすでにあちこちに形成しているのだろう。東京など大都市には村社会を絵に描いたような県人会といった組織があるが、国際化の中でその社会類型に異国人が加わったとしてもおかしくない。アジアの端っこに弓なりに国土を形作って、古代からもともと多様な民族の渡来を受け入れ続けて来た国である。先住の小集団同士をつなぐゆるいつながりのルールを身につけて、融和的な新しい小集団となっていけばいい。

先週パートに行くつもりでバスに乗って、うららかな春の到来を感じさせるような陽気だったので、いつも降りる停留所より2つばかり早く降りて目的地まで歩くことにした。藩政時代の寺町である。かってはお寺の伽藍をとりまく雑木林の中に墓所や焼き場があったところで、昔は穏坊と呼ばれた人たちが住んでいた。今は新建材の家が立ち並ぶ住宅街に変わったが、染み付いた土地の貧相な風情はなかなか消えないものだと思いながら、入り組んだ道を歩いていると、こんな奥まったところにと思うような場所にぽつんと商店があった。看板を見ると大きな手書き文字で「ハラル」と書いてある。なんとイスラム教の戒律に基づいたハラル食の食材を扱うお店だった。こういう特殊な店の需要があるくらい深く広く、彼らアジアから来た外国人はすでに重要な労働力として日本社会に浸透しているのだろう。

前に家に呼んで食事を共にしたネパール人がおみやげとして持ってきた紅茶がちょうど切れていることに気づいた。中に入り「紅茶はありませんか」と言って雑然とした店内を見渡すと、店番をしていた浅黒い顔の老人が品物の棚を指し示し、たどたどしい言葉で商品の説明をし始めた。残念ながら、その中には探していたネパール人の紅茶と同じ商品はなかった。老人が進めるインドとパキスタンバングラデシュの紅茶の中から、いちばん安いインド産の紅茶を選んだ。なんと250グラム、600円なり。スーパーに出回る紅茶と比べても、とても安い。しかもパートから帰ってさっそく飲んだ紅茶は、日本人の味覚に合わて気の抜けたようになったRやNの紅茶と違って、絶品だったネパールの紅茶には及ばないものの、しっかりしたフレバーのする満足のいく商品だった。

 

クロネコドライバー

今日娘が一ヶ月間温泉町に出稼ぎ労働に行くための荷物を発送した。たまたま家の前の駐車場にクロネコの大きなトラックが停まっていたので、これ幸いと持ち込んだ。運転手は女性で代車にたくさん荷物を積み込んで脇道の奥の家に運んでいるところだった。戻ってきてから荷物の大きさを図り伝票をPOSデバイスでチエックし、その場で発送料を受け取った。その間、前座席の車中からは呼び出しの電話音が頻繁に鳴っている。こういう仕事を間違いなくするのはなかなか大変だ、というのは現在、爺さん自身がパートで週2日だが寮監の仕事を始めたばかりで、若者を相手に様々な仕事、それこそ掃除から受付、メール書きまでしているから、その難儀さが分かるのだ。しかも、彼女は一人で、大型自動車の運転までしている。

毎日おたおたしているばかりの爺さんからすると驚きだ。それで思わず言ってしまった。「これだけの量の仕事をこなせるなんて、すごい能力ですね」。おそらく彼女は運動神経はもちろん、即時に判断する頭の性能がとってもいいのだ。ふだん言われたことがない褒め言葉に驚いたのだろう。一瞬動きが止まって、激務に張り詰めた男っぽい顔が緩んだように見えた。それは、本来資本主義社会ではありえないはずの、高学歴がよいポジションと安定した収入にリンクするビジネスモデルにどっぷりつかっている者には一生分からないであろう笑顔だった。掛け値なしの労働対価で生きる者がつかの間見せた充足のグリンプス。

 

保田輿重郎 「芭蕉」

この歳になって保田輿重郎を読むとは思わなかった。なぜなら保田輿重郎は、戦後平和主義の中に浸かってそれを毫も疑うことなく生きてきた我々の世代にとっては、戦前の唾棄すべき最右翼の思想家であり、カビの生えたどころか、もう土に帰って跡形もなく消え去っていて当然と思う存在だったからだ。それが、なんと今改めて読んでいる自分がいる。もちろん戦争末期に書かれたものであるから、「国の道」「民族の詩人」「民族の心もち」「国民の祈念」といった慷慨調のアナクロ愛国ワードがたくさん出てきて、最初はなんだこれはと思って辟易した。

しかし、そうした当時の時流に乗った愛国ワードを置き換えて文章の骨格をたどると、今の自分が考えていたり感じていたりするところにぴったりするところが案外多く久しぶりに引き込まれた。芭蕉についてはこれまでも何冊か読んできたと思うが、芭蕉俳諧の道を極めさせたモチベーションがわからないから、その個々の俳句についてもよく分からない結果に終わっていたのが読解の道筋が見えてきた。

保田の芭蕉論の批評的な下敷きは近代批判の体裁を取る。それを単純に西洋対日本ということにしているのは戦時中であるから宜なるかなである。しかし、保田は頻繁に取り上げる国や民族という言葉自体が、明治維新以降西洋に準拠してつくられたかれの嫌う概念的思考、近代的枠組み、本居宣長によるならば漢意(からごころ)に絡め取られてしまっているということを無視している、その点において政治的だ。矛盾したロマン主義的存在がここにある。

芭蕉が国や民族の心を求めて旅をしたというのはありえないことだ。私はだからここのところはすべて「古人の心」という表現に置き換えて読んだ。まさしく江戸時代も、保田が書くところに基づけば、西鶴上田秋成の文芸に見られるごとく、日本的な近代の中にあったのであり、芭蕉はこの風潮を良しとせず「大いなるいのち」との邂逅を求めての旅だったのである。もっともこの「大いなる」という壮士風な言葉も削除したいところだ。

芭蕉は良く泣いた人だということをこの論考で知った。彼が慟哭するほどに出会ったのは宗教的に色分けできない「神」、歴史や文化を超えた永遠なる存在なのだと思いたい。保田はドイツロマン派の文学を大学で学んだという。ドイツロマン派と限らず、ロマン主義は、結局は「神なき世界」の論、無神論から胚胎され、それと依存関係を持つ。だから苦悩=アゴニーがつきものとなる。保田は、このロマン主義の末路とは違う、自然な「神」との出会いと神のいのちを生きる「軽み」を芭蕉とその俳諧の道のうちに見い出した。

今年のXfactorUKもいよいよ大詰め。思いとは違った結果に。

久しぶりにXfactorをチエックしたら、自分が推していた人たちはほとんど落ちていた。しかし、残った顔ぶれを見ると納得するところは多い。まず今年一番と思っていたShanaya Atkinson-Jonesは遥か前の「6席争奪」の時点で落ちていた。その前の時点で危惧していた音程のずれが露骨に出て、またそれを補うべき持ち味のディープなエモーションも空回りしていた。誰が聞いてもこりゃ仕方がないという内容だった。残念!

しかし、もうひとりの期待のコンテスタントGrace Daviesは、何回かのライブショーをこなしてファイナルを迎えるまでになっていた。ピュアな内面感情の表出を、オリジナルな曲と詞、そして全くユニークなクセの強い歌唱法によって、ここまで認めさせるとは大したものだ。

次に残念なのはセミファイナルのセカンドステージで、Lloyd MaceyとThe Cutkelvinsが消えたこと。確かにRak-SuやKevin Davy Whiteは、歌唱力もテクニックも安定性が高く、迫力もあって、誰もが納得の実力の持ち主たちなのだが、そしてその点がイングランド都市部のファンから圧倒的な投票数を稼いだ理由だろうが、どこか心にがつんと来る新鮮なものがなくてステレオタイプでものたりない感じがした。とりわけKevin Davy Whiteのジミーヘンドリックス。ノイズのない=魂のないジミヘンなんていくら上手でも塩抜きの漬物のようだよ。せめて下町のパリジャンならシャンソンの泥臭いサビを効かせてほしかった。

メロウな美声のLloydはウェールズ出身、一方の2人兄弟と妹からなるThe Cutkelvinsはスコットランド出身。地方に保存されている繊細な感性や魂、いい意味でのローカリティが、新しきものを求めてやまないミュージックインダストリーの沸騰するパワーに押されて、結局は敗退してしまったという世界中で蔓延している結果の写し絵のようで、ちょっとがっかりの結果でもあった。しかし、The Cutkelvinsの上品さを秘めた今風のファッションセンスは、最初に惹かれた要素だったが、流行の最先端を意識しすぎる地方都市であるがゆえのセンス(渋谷でクールに決めているのは地方出身者というのと同じ)という感がしなくもない。また、妹の歌唱力がどこか弱々しい感じだったので、当然の結果だったのだろう。

その後ファイナル1でKevin Davy Whiteが消え、ファイナル2はRak-SuとGrace Daviesの一騎打ちとなった。自分としてはGrace Daviesのエキセントリックとしてしか現れようがないピュアな個性に期待していたが‥‥

 

さて最終結果発表。Rak-suの圧倒的勝利。ラストパーフォーマンスを見ると一般大衆の選択の正しさを認めざる得ない。このグループの爆発的元気は、イングランドムスリム国、アフリカの多人種が寄り集まったダイバシティから生まれてきたもの。従来のボーイズバンドの範疇にはくくれない全く新しい力を感じる。ユーロ離脱Brexitという閉じこもりを選択したイギリスへNONを突きつける、グローバル都市ロンドンのアマルガムからの強烈なカウンターパンチとでも言ったら良いか。それが最後の最後、Rak-suのパーフォーマンス(ハーモニー、ダンステクニック、バランスなど、すべてに抜きん出ている)に否が応でも注視せざる得なくなって見えてきたことだった。Grace Daviesの演出はこのパワーに負けまいとするかのように、バックダンサーの集団をこれでもかと投入したが、それが返って裏目に出て、心深く静かに訴えるGrace の個性を殺す結果になっていた。

しかし、最後に付け加えたい。Grace is a far superior addition to the world's music. Graceは、Rak-suのような万人に受ける要素はないかもしれないが、アーティストとしての道を歩み、新たなジャンルをつくる力を持っている。

 

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