保田輿重郎 「芭蕉」

この歳になって保田輿重郎を読むとは思わなかった。なぜなら保田輿重郎は、戦後平和主義の中に浸かってそれを毫も疑うことなく生きてきた我々の世代にとっては、戦前の唾棄すべき最右翼の思想家であり、カビの生えたどころか、もう土に帰って跡形もなく消え去っていて当然と思う存在だったからだ。それが、なんと今改めて読んでいる自分がいる。もちろん戦争末期に書かれたものであるから、「国の道」「民族の詩人」「民族の心もち」「国民の祈念」といった慷慨調のアナクロ愛国ワードがたくさん出てきて、最初はなんだこれはと思って辟易した。

しかし、そうした当時の時流に乗った愛国ワードを置き換えて文章の骨格をたどると、今の自分が考えていたり感じていたりするところにぴったりするところが案外多く久しぶりに引き込まれた。芭蕉についてはこれまでも何冊か読んできたと思うが、芭蕉俳諧の道を極めさせたモチベーションがわからないから、その個々の俳句についてもよく分からない結果に終わっていたのが読解の道筋が見えてきた。

保田の芭蕉論の批評的な下敷きは近代批判の体裁を取る。それを単純に西洋対日本ということにしているのは戦時中であるから宜なるかなである。しかし、保田は頻繁に取り上げる国や民族という言葉自体が、明治維新以降西洋に準拠してつくられたかれの嫌う概念的思考、近代的枠組み、本居宣長によるならば漢意(からごころ)に絡め取られてしまっているということを無視している、その点において政治的だ。矛盾したロマン主義的存在がここにある。

芭蕉が国や民族の心を求めて旅をしたというのはありえないことだ。私はだからここのところはすべて「古人の心」という表現に置き換えて読んだ。まさしく江戸時代も、保田が書くところに基づけば、西鶴上田秋成の文芸に見られるごとく、日本的な近代の中にあったのであり、芭蕉はこの風潮を良しとせず「大いなるいのち」との邂逅を求めての旅だったのである。もっともこの「大いなる」という壮士風な言葉も削除したいところだ。

芭蕉は良く泣いた人だということをこの論考で知った。彼が慟哭するほどに出会ったのは宗教的に色分けできない「神」、歴史や文化を超えた永遠なる存在なのだと思いたい。保田はドイツロマン派の文学を大学で学んだという。ドイツロマン派と限らず、ロマン主義は、結局は「神なき世界」の論、無神論から胚胎され、それと依存関係を持つ。だから苦悩=アゴニーがつきものとなる。保田は、このロマン主義の末路とは違う、自然な「神」との出会いと神のいのちを生きる「軽み」を芭蕉とその俳諧の道のうちに見い出した。

今年のXfactorUKもいよいよ大詰め。思いとは違った結果に。

久しぶりにXfactorをチエックしたら、自分が推していた人たちはほとんど落ちていた。しかし、残った顔ぶれを見ると納得するところは多い。まず今年一番と思っていたShanaya Atkinson-Jonesは遥か前の「6席争奪」の時点で落ちていた。その前の時点で危惧していた音程のずれが露骨に出て、またそれを補うべき持ち味のディープなエモーションも空回りしていた。誰が聞いてもこりゃ仕方がないという内容だった。残念!

しかし、もうひとりの期待のコンテスタントGrace Daviesは、何回かのライブショーをこなしてファイナルを迎えるまでになっていた。ピュアな内面感情の表出を、オリジナルな曲と詞、そして全くユニークなクセの強い歌唱法によって、ここまで認めさせるとは大したものだ。

次に残念なのはセミファイナルのセカンドステージで、Lloyd MaceyとThe Cutkelvinsが消えたこと。確かにRak-SuやKevin Davy Whiteは、歌唱力もテクニックも安定性が高く、迫力もあって、誰もが納得の実力の持ち主たちなのだが、そしてその点がイングランド都市部のファンから圧倒的な投票数を稼いだ理由だろうが、どこか心にがつんと来る新鮮なものがなくてステレオタイプでものたりない感じがした。とりわけKevin Davy Whiteのジミーヘンドリックス。ノイズのない=魂のないジミヘンなんていくら上手でも塩抜きの漬物のようだよ。せめて下町のパリジャンならシャンソンの泥臭いサビを効かせてほしかった。

メロウな美声のLloydはウェールズ出身、一方の2人兄弟と妹からなるThe Cutkelvinsはスコットランド出身。地方に保存されている繊細な感性や魂、いい意味でのローカリティが、新しきものを求めてやまないミュージックインダストリーの沸騰するパワーに押されて、結局は敗退してしまったという世界中で蔓延している結果の写し絵のようで、ちょっとがっかりの結果でもあった。しかし、The Cutkelvinsの上品さを秘めた今風のファッションセンスは、最初に惹かれた要素だったが、流行の最先端を意識しすぎる地方都市であるがゆえのセンス(渋谷でクールに決めているのは地方出身者というのと同じ)という感がしなくもない。また、妹の歌唱力がどこか弱々しい感じだったので、当然の結果だったのだろう。

その後ファイナル1でKevin Davy Whiteが消え、ファイナル2はRak-SuとGrace Daviesの一騎打ちとなった。自分としてはGrace Daviesのエキセントリックとしてしか現れようがないピュアな個性に期待していたが‥‥

 

さて最終結果発表。Rak-suの圧倒的勝利。ラストパーフォーマンスを見ると一般大衆の選択の正しさを認めざる得ない。このグループの爆発的元気は、イングランドムスリム国、アフリカの多人種が寄り集まったダイバシティから生まれてきたもの。従来のボーイズバンドの範疇にはくくれない全く新しい力を感じる。ユーロ離脱Brexitという閉じこもりを選択したイギリスへNONを突きつける、グローバル都市ロンドンのアマルガムからの強烈なカウンターパンチとでも言ったら良いか。それが最後の最後、Rak-suのパーフォーマンス(ハーモニー、ダンステクニック、バランスなど、すべてに抜きん出ている)に否が応でも注視せざる得なくなって見えてきたことだった。Grace Daviesの演出はこのパワーに負けまいとするかのように、バックダンサーの集団をこれでもかと投入したが、それが返って裏目に出て、心深く静かに訴えるGrace の個性を殺す結果になっていた。

しかし、最後に付け加えたい。Grace is a far superior addition to the world's music. Graceは、Rak-suのような万人に受ける要素はないかもしれないが、アーティストとしての道を歩み、新たなジャンルをつくる力を持っている。

 

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「2017XファクターUK」期待のひとり

ゴット・タレントといっしょに毎年チエックしているXファクター。まだ4人の審査委員の前で歌って彼らのボートで決める最初の段階だが、今年の応募者は例年より期待できそうだ。その中でもこの女性Shanaya Atkinson-Jones(19)は歌がうまいだけではない、魂の深いところから出ているようなディープな声質を持っている点で、他に抜きん出ていると思う。小さいときに養子に出されたという辛い過去が背景にあるのかもしれない。唯一のライバルは切実な感情を織り込んだオリジナル曲を持って臨んだ女性Grace Davies(20)かなあと思っている。それにしても近年はみんな若い。

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 さて後日談。残念ながらShanaya は6チェアーを奪い合うステップで

あえなく消えた。音程はくずれるは、エモーションも空回りして、ひどい出来であった。残りたいとの欲が、彼女の唯一の持ち味であった魂から出ているような歌声の魅力をまったく消し去っていた。

一方のグレースは、オリジナル曲を次々披露してライブショーの3回まで勝ち残っている。次は彼女に期待するか。