気になっていた「三島由紀夫論」

長らく積ん読になっていた橋本治三島由紀夫論(「三島由紀夫」とは何者だったか)を読んだ。作者は例の橋本節でややこしく長々と書いているが、(彼の文章は頭脳への滞留時間が長いのでときどき息が苦しい)あえて流行りのパトグラフィー用語を用いれば、三島は「発達障害」であったということだろう。本来なら旺盛な生活欲に満ちた社会からははじき出されて生きる人たちなのだが、天才ゆえに社会の表舞台に引っ張り出されてしまった人たちが少なからずいるものである。まれに見る頭脳に文才が加わり、十代で「花ざかりの森」を書いて瞬く間に文壇の寵児となった三島もその一人なのだろう。

橋本は三島の「仮面の告白」を執拗に取り上げて、奇妙な歪んだ論理を指摘する。作家は自叙伝を書くものだという習いに従って書いた。しかし、これは三島由紀夫の自叙伝ではないのだという。なぜなら作家がどこにも出てこないから。では平岡公威の自伝かというと「三島由紀夫」という仮面の下には「平岡公威」という肉=実体はないからそうではない。ではこの小説は何なのか。「虚」の自伝ということになる。

このようなややこしい論理の煙幕、ミスチフィカシオンは「豊穣の海」四部作まで三島の小説の随所出てくる。それを丁寧に解きほぐして非神話化する手口は橋本ならではのものだ。「仮面の告白」の論理そのままに、三島は結局最後まで現実の他者に出会うことがなかった。どこまでも一人舞台であった。盾の会の若い隊員を率いる表向きの姿とは裏腹に彼は最後まで孤独であった。

1970年、三島が市ヶ谷の自衛隊駐屯地に突入し自決したその時、ちょうど食卓をゴキブリが這うような汚い中華屋でラーメンをすすっていた。何気なく見上げて見たテレビではちょうど三島の騒動を中継しており、事が終わった総監室が映されていた。カメラはごろり転がった三島の首を捉える。それは翌日の新聞にも載せられていたと記憶しているが、その顔は何か真理に近いものを得た者の意志的で確信的な表情ではなかったように思う。なにか「しまった」というような感じの表情のように思えた。ここで初めて三島は、自意識ではどうにもならない生身の他者に出会ったのではないか、そう思える。

「かさぶた」としての日本の「近代」

昔からなぜ江戸時代を近世と呼ぶのか気になっていた。本当は近代と呼んでいいと思うのだが、欧米の定義には当てはまらないので、近世と呼んでいるのだろう。さらにそうした欧米にオーソライズされた基準を使いながら、明治を江戸と明確に区別したいというバイアスが強烈に働いている。

しかし、国のメインストリームにいて、それで自らエスタブリッシュメントとしてのビジネスモデルを作ろうという人(最もピュアな気持ちでいる人もいるだろうが)はそれでいいのだろうが、大方の庶民はそれに違和感を持ちつつも、「ざんぎり頭を叩いて見れば文明化開花の音がする」などと戯れ歌を歌いつつ表層では時勢に合わせていくそぶりを見せねばならない。

それを問題視するのはエリート層に座るだけの頭脳を持ちながら、そこからずれてしまった孤独なアウトサイダーということになる。誰でも知っている人物をあげれば「夏目漱石」が典型だろう。英国への留学体験を持つ彼はこの明治の嘘に早くから気づく頭を持っていたが、出口なき違和感を克服できない課題として胃病を患いつつぐだぐだと問い続けるばかりだったということだろうか。

それは一種のカサブタだった。カサブタだから怪我が癒えると自然に落ちてしまう。しかし、カサブタのときに作られたインチキの制度や体制ではどうにもならない。だから最終的には露出した第一古層である江戸は、外圧で大きな傷を負うことになる。戦後も別の意味でのカサブタだった。だが戦争の傷の上に出来たカサブタもそろそろ賞味期限を迎えつつある。

だからと言って日本独自の実によく出来た江戸の近代システムに戻れるかというと無理な話だ。富裕層の知識人の中に安易に江戸を理想化する人がよくいるが、無責任だと思う。開府当時はさておき、やがて何度も飢饉に襲われへろへろな経済状態になって大政奉還しなければならなくなった現実が分かっているのだろうか。まあ自分の既得権はそのままだと思っているからだろうが。

江戸時代は、西洋諸国と同様、しかし、よりシステマチックに宗教的本質を脱色し、慣習化する中で生まれたものだ。理神論に基づく(だから鬼神のことは問わずを前提とした儒教が主軸になった)人間の知恵の働きによって保たれた社会だ。それも西洋とは違うまったくの独自のシステムが機能していたのには驚かされる。

その点、明治や昭和はカサブタだ。そのインチキはやがて通用しなくなるが、さてその次はとなると誰も描けない。これは欧米も実は同じで、我々は本当はそうした深刻な状態、いわばヒューマニズムの終わりの状態に生きている。そろそろ放蕩息子は神に大政奉還すべきなのだろうか。

いずれにしろ日本人の意識を変える第一歩は、西洋への劣等感から生まれたような江戸時代=近世という曖昧な表記をやめて、江戸時代=近代としっかり位置づけ直して、どこが西洋近代とは違うのかを明確にしないかぎり、本質的な問題の所在も見えてこない。

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大正時代の雑誌より「銀座のカフェ」田舎娘のあこがれ。

今日も世界ではシュールな出来事が起こってる。

ボーイフレンドのアパートを初めて訪れた女性が出会ったとんでもない出来事。ささいなことが大事となって消防士まで出動するまでの大騒ぎ、ギャグ漫画のようなことと成った。もっともボーイフレンドがソーシャルメディアに載せてファンドをつのったおかげで十分その費用はペイできて、さらに関係団体に寄付までできて、めでたしめでたしとなったようだが。

絶対既製のメディアでは配信されることがなかったこういう他国の三面記事的エピソードにまで、インターネットを通して日常的に簡単に触れられる効果というのは案外大きいと思う。こういうネット空間に無数に転がっている三面記事やユーチューバー動画は確かにロクでもないものもたくさんあるが、今まで書物を通してしか知りえなかった西洋事情の情報や知識なぞ、西洋知識人と同レベルと思い込んでいる、田舎者の産物であり、エリート意識を隠した一面的なカテゴライズでしかないことがよく分かるようになった。

それはトランプの出現に驚くアメリカの内情とも通じていて、今まで隠れていたもの言わぬ民の声が、吉本隆明の好きな言葉を使えば「大衆の原像」がにわかに表に出てきてしまって、エリートの偽善を暴きつつ、政治情勢も左右することとなったのだ。それをポピュリズムやナチズムという揶揄的視点でしか表し得ないのは、アリストクラシーと化した既得権者の自己批評を欠いた、怠慢で情けない意見だ。

話が飛んでしまったが、こういう記事を読むと、頭で形づくった高尚な思想や観念(それがどれだけ人間に悲惨をもたらしているか)をひっぺがすと人間の実情はどこでも同じだなと思う。世界平和なんて言うのも、実は知識人が絶対語らないこのろくでもない、ばかばかしい場所から始めなければならない。

 

期待してたAirPodの情報がない?つぶされた?

アップルのAirPodsではない。フランス人の発明になりインドのメーカーが投資しているという空気を燃料とする車AirPodのことだ。時速80キロ、200キロまで走れる。環境やコストのことを考えると一番理想的な未来車だと思うんだけど普及が難しいようだ。

電気自動車に転換したという(それじゃ結局は電力供給のプラントの問題になるので意味がないと思う。原子力反対のマスコミや知識人が、EV、EVとうるさいがこの要の電力問題を取り上げないのはどうしたわけか。)4年前のニュースだけで、最近の情報がほとんどない。これが普及すると大きな産業変革となるのでつぶされた?

もっとも車が単なる移動の道具でなく、霊柩車のような黒い高級外車が「すごろく」の上がりになっている国では無理か?(ある意味、金持ちであっても100%死すべき人間であることの見事な隠喩になっていて、生前葬の意図が隠れているのだろうか)。

 

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Most Hilarious Video I've seen recently

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60年代、ヒッピーカルチャーの代表作ポリティカルミュージカル「ヘアー」。日本でも当時劇団四季がリメークした?なんとブロードウェーのスーパースター Lin-Manuel Mirandaを迎えて交差点でヤッター☺️

SHINSUKEのエントランステーマと「赤穂浪士」

このエントランスミュージックを聴くたびに忠臣蔵を思い出す。長谷川一夫大石内蔵助になった初期のNHK大河ドラマのテーマソングが似通った響きととリズムを持っているからだ。こんなかたちで歌舞伎の魂がニューヨークのど真ん中にすんなり持ち込まれていることを不思議に思う。京都の人shinsukeの入場は死を覚悟した道行きの様。拍手喝采で迎えられるのは、世界都市ニューヨークにも人種文化を超えて同じ魂を持った人たちがいるということだろう。SummerSlam、インドのマハラジャJindermahalとの一戦近し。

 

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以下は大河ドラマ赤穂浪士」のテーマ。タイトルバックももちろん中身も今のおちゃらけたものと違って格調高い。作曲は芥川也寸志。(若い人は知らないと思うが芥川龍之介の息子さんだよ)

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