Tennessee Waltz   Elle & Toni

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コロナ後、従来のスターシステムに乗らない、肩に力が入らないところから新しい自然体の音楽のウェーブが起こってきている。YouTubeを舞台に。まずこの二人は自分たちが心地よい環境で音楽を楽しんでいる。そのことが自然に伝わってくる。聴いてるうちに二人とともに歌い出してる自分がいる。まさしくそれでいいのだ。このスタイルが商業主義に呑まれずに続くことを祈る。

洋楽はカチッとした音の構築があって、それに歌詞がついてくるって感じだけど、この二人を聞いてると初めにナラティブ(語り)があってそれにアコースティック音がついてきてるように思う。この流れは世界的に注目されてるJポップと同じ。Jポップの先駆けのハッピーエンドなんかは洋楽のロックの音とリズムにいかに歌詞を乗せるかに苦労した。

しかし、それから50年、歌詞から自然で日本独自のユニークな音の流れが生まれるようになった。ここがJポップが世界でも受けている理由なのだろう。ナラティブから歌が生まれる万葉集から始まる和歌や俗謡の伝統に一見ユニバーサルな現代の衣装を着つつ回帰しつつあるのだろうか。そんなことまでこの二人の演奏を聞きながら考えていた。

「パウロ 十字架の使徒 青野太潮」(岩波新書)をめぐっての対話

H先生
お借りした「パウロ 十字架の使徒 青野太潮」(岩波新書)を巡って、以下、思い出と感想を混ぜ合わせて少し長く書きました。お読みいただければ嬉しいです。

大学に入ってアルバイトでお金ができたのでカメラを買いました。ズームレンズは高いので望遠180mmと広角35mmの交換レンズを付けました。先生が彫刻を見るときはグッと近寄って見るとも言われましたが、どうも私はその頃から好みは広角レンズ(標準よりちょっと大きくとれる)になったようです。人物を撮るのでも周りの風景を含めて点景としてとる方が好みです。なんでこんなことを話し始めたかというと、今青野先生の「パウロ」を読んだからです。これは恐ろしく望遠レンズだなと思ったからです。しかも三脚をしっかり立てて手ブレを極力防いでキリストの十字架に焦点を当ててると言う感じがします。

 
望遠レンズで美しく絞り込んでポートレートを撮るということに憧れた時期がありますが、どうも私には不得手のようです。聖書の読み方もパウロ書簡だけにはまりこんで読むというのは苦手で、たびたび言うように創世記から黙示録まで複数箇所を読む方が性に合ってるようです。注釈書の力を借りずとも奇跡のようなメッセージの意味を伴った響き合いが毎朝のように自然にあり感謝です。専門家になり得ない素人の読み方と言えばそれまでなのですが。
 
さて「パウロ」ですが、青野先生は「イエスの十字架」は「律法の呪い」からの解放と捉えています。我々はその姿を見つめ続けること、つまり「十字架につけられたままのキリスト」として、贖罪の教義に流されずに心の内側で経験し続けることを説いておられます。私もまだ洗礼を受ける前学生の時、まだ聖書もほとんど読んでないとき、「十字架につけられたままのキリスト」にインスパイアされました。しかし、それは喜びの伴わない認識で、絶望のどん底での認識でした。
 
茶店でクラスの憧れのマドンナ(今は友人の妻になってます)に話したことが思い出されます。こんな自作の稚拙な喩え話をしました。人は水槽の中で泳がされてる金魚のようだ。ただ金魚ではないので苦しくなって下から湧き上がってくる泡ぶくに取り縋って息をしようとする。しかしそれは泡ぶくでしかないから途中で弾けて上の世界にまでは行きつかずにほとんどが死んでしまう。そんな世の泡ぶくに騙されずに底まで行き着いた人が救われる。中途半ぱに人間の理想や夢に乗ってしまうことなく、絶望し尽くさないと本当の救いは訪れないとの意味を込めたものでした。
 
そのとき自分の耳に響き渡ってたのが「我が神、我が神、我を見捨てたまいき」と言う十字架上キリストの言葉でした。その時は心にズシンとくるものの、意味が分からなかったけど、この言葉は青野先生のおっしゃるように、犠牲の死の神聖化とは程遠い、どん底に落ちて絶望した者の叫びであり、そうした呪われた者さえ救ってくださると言う神の究極の愛の意志の表れなのだと思います。確かにそれが成り立つにはキリストが、神から離れては最後には絶望に陥るよう宿命づけられた、まさしく人間である必要があります。
 
確かに青野先生の「律法の呪い」と言う言葉に即して付け加えれば、これは人間の「知恵の呪い」でもあるのでしょう。「人間の側から」知恵を用いて神に到達できると考える者、ヘブライストたちが最後に行き着くところの呪いです。創世記で、人間が悪魔に吹き込まれた知恵ゆえに神から離れることになったことを想起します。まさしくこの人間の知恵の行き着く先は、絶望とその結果の死しかないのでしょう。
 
このどん底に対峙し、そこから救ってくださるのは神しかおりません。だから、その十字架上の姿を間近で見た兵士は「この方は誠に神の子であった」と言ったのでしょう。傲慢な人間のこの究極の絶望からさえ救う神がまさしくおられる。まさしくこの十字架は「人間の側から」ではなく、「神の側から」全ての人を救うという圧倒的な愛のメッセージなのだと思います。
 
青野先生のおっしゃるように、イエスが真の人間であるなら、神のご計画を果たした「強いイエス」はあり得ないでしょう。そこからヘブライストのように律法尊守の教義の延長で贖罪論、復活論を展開する危うさはあります。確かに「今もなお十字架に付けられたままのキリスト」を、見つめ続け保持し続けることは、そうした欺瞞に陥らないために意味があるかも知れません。しかし、一方で私にはそれは普通の人間には難しいことのように思います。キリスト=神が与えたもう万人の救いを、人間の側からの不可能な、高度で難しい倫理的な努力にいつしか、変質させてしてしまう、また別の危うさがあるように思うのです。
 
キリストのこの一回限りの完全な十字架の贖いによって、どん底から本当に救われたと感じる者が、必然的に復活の喜びを感じるようになる、私のような普通の人間の難しくない自然の流れを肯定したいと思います。贖罪「論」や復活「論」ではありません。旧約においても、贖いの儀式をすることで罪が自動的に贖われると言う律法主義的な考えではない、人間の側からの努力では律法は守れないと言う、御子の出現につながる神のメッセージが始めからあるように思います。とりわけアブラハムのイサクを捧げる箇所は何か旧約の中でもこの箇所だけはキリストの十字架の場面と同じような粛然とした透明な静けさがあります。ここを読むと贖いの儀式があって(に規定されて)キリストの十字架があるのではなく、キリストの十字架があって贖いの儀式があるように感じます。
 
まだまだこれはどう言う意味かなと言う箇所があります。またルカにおいてキリストの言からの逸脱を指摘して否定的に書かれているところも、復活の主へ力点を移しつつある自分には気になります。それはまたの時に書ければと思います。
 
Yさん

青野先生の「パウロ」を読まれたのですね。確かの、新約学者らしく、そこには ある思い切った、「理解の試み」提示されていて、とても、興味深く. とても大事な「問いかけ」を投げかけて来る、論考だと思います。

あえて、正統的な見解を離れて、穿った切り口から。一つの「理解」をつかみ取って、主張を展開しておられるように思います。厳しく深い「思索」「探求」「突き止め」を果たしていくためには、このような思い切った「異論」や、「仮説」の試みをぶつけながら、考えることは、とても大事なことだと思います。考えられる限りの、「考え」(自説)を、真っ向からぶつけてみて、初めて、究極の思のものが、滲み出てくるのですから。

今、私が、読んでいる トマスの、スコラ哲学(神学大全)では、論文の、構成の形が決まっていて、まず、この「主題に対して、「信頼できる異論」をぶつけるとい形で論を進めています。

まず「テーマ」が明示される。2項では必ず、それに対する充分「権威ある、代表的な異論」が提示される。そして3項では、今度は、この「異論」に対する、「権威ある反異論」が、提出される。それらを、そして、充分、その異論を踏まえた上で、初めて、自分の考えが提示するという形を取っている。そしてさらに最後には、自分の真理理解を踏まえた上で、先に提示した「異音」や「異論に対する自分の考えを論述する」 全部が、見事にこの形で貫かれている。

ただ、スコラ哲学での「異論との対峙」は。ただ前論に対する「否定」や「排除」だけを意味しない。提示された異論の中の多くを理解し、認め、受け入れさえしたうえで、幾つかの「違う点」を、鮮明に指摘する。こういう取り組み方は、きわめて、穏健で、建設的なものに思える。

青野論文を読みながら。そういう。読み方を、頭をよぎらせていました。

贖罪の究極のメッセージに関係するテキストであるだけに。 この、投げられた「問いかけ」を、しっかり受け止めて考えることはとても大事ですし、よい「問いかけ」だと思いますが。このまま、受け入れることができないなと思いながら読みました。   KH

 
H先生
 
早速のご返事ありがとうございます。私などには理解不可能な深淵かつ膨大なトマス神学の論理構造が、先生のお話でほんの少し分りました。伝道のための説教と言う観点に立てば、学者のように、神に対してニュートラルを保ちつつ、自分の思考において、聖書の言葉の解釈や評価の可能性を論理立てて示すのではなくて、そのときどき、語る人にも語られる人、どちらの心にも入る神の言葉を見極めることが必要なのだと思います。ただ見極めるのには、説教者のうちに、ここに神がおられると言う経験的確信があり、その神が真の評価者として聖霊なる神として働いておられると受け止める心(信心)があることが大事なのでは。先生のメールを読みながら、学者と伝道者の違いについて、そんなことを考えていました。
 
Yさん

語り掛けた「言葉」と「思い」に対する。

信仰的な実存から、生み出される、反応と対応を 大事に受け止めました。

Y Tと向き合っている時間の継続を感じました。 

深淵で、細密な スコラ哲学 は。「考えること」刺激し。促し鍛えてくれます。

思索の道場のようです。

自分自身の中に、「生きて、事実、この私と、差し向っていてくださる神の、リアリティを、確信しながら、肩にロープを担いで、深い洞窟におりていくような 経験を感じています。

神はおられる。神は生きておられる。その神は、この私と、差し向っていてくださる。 

楚々、事実を 事実として、信じて、その事実の中で生きている。

「その自分」が、いま。分析と、構築の岸壁に取り付いている。そんな感じでトマスを、読んでいます。                

よい「時」を重ねてください。     KH

H先生への手紙 時間は人間にはコントロールできない

「わたしはアルファでありオメガである」という聖書にも何度か出てくる有名な言葉。改めて考えるとこれは「わたしは時間である」というに等しいなと気付いた昨今です。身近な作家の営為を見ても、如何に空間的な制限にとどまってるものに、永遠の時間を注ぎ込めるかが彼らの深層のモチベーションになってるのを感じます。やり方は違ってもその渇きがないと永続的な動力にはならないのでしょう。
 
2次元の空間デザインは人のコントロールのうちにあって修練を重ねれば誰でも一定のレベルに到達できます。しかしこれはあくまでも人間の頭脳のうちに生じる理想の平面的図式化であり、これを超えた、つまり時間を呼び込むとなるとなると学習や修練では到底不可能です。 N氏の抽象的作品も、彼が生きた瞬間の永遠が流れる時間を、絵に侵入してくる言語的イメージを極力配して、色彩と形の純粋な絵画エレメントだけでどう呼び込むかの繰り返しの営為なのでしょう。
 
一方、方法は正反対ですが、Mさんの作品は無意識の造形力によって人間が知り得ない未来の時を呼び込めるかに眼目があります。彼女は図像とタイトル、すなわち絵の言葉によってそれをしようとしています。これは印象派以前の正統的な西洋画の深層の流れです。
 
養老孟司が視覚から脳に入るイメージと聴覚から入る音楽では全くバラバラに入ってくるだけで総合されるところがないが、言語はそれができるというようなことを言ってました。聖書を声を出して読んでいるとそのことを如実に感じます。神が言葉から世界を造ったという意味はここにあるのでしょう。
 
ベルグソン小林秀雄の生々しい邂逅の意味もここにあるのではないのでしょうか。頭の中だけのイデオロギー化した、つまり空間的な図式化した言葉の本来の力を取り戻す営為です。詩の言葉と一言で言えるようなものです。
 
日本のキリスト教は、神が今もおられるという信仰に基づき、聖書の言葉の力を信じてそのまま読むことを忘れているようです。初めに教義という図式があって、それに基づく正しい解釈になってるところがあるようです。立派な先生の説教集に基づき、同じ図式を描けるようにその学習にひたすら費やしてるのでは心躍る永遠の時間は見えません。正統派ユダヤ人がトーラーを頭を振りながら読んでいるそれはどうしてかと問いかけられて、それが頭だけでなく心と身体に入るようにそうしてるのだと答えてる映像を思い出しました。特別そうしようと思わなくてもそうなるのだそうです。
 
昨年暮れ夏目漱石の「明暗」を読みました。読み始めて最初に奇異に感じたのはそれまでの小説は主人公の単一的視点と内面の吐露であったのが、ここでは登場人物が思い思いに語り始めたことです。あの漱石の作品ではお馴染みの謎の女性が内面を吐露して話始めたことも驚きでした。小説の最初の方でドストエフスキーの名前が出てきます。その多声楽的構成が夏目漱石の「則天去私」の内実なんでしょう。私の視角は絶対ではない。それはいいのですが、ただし神がない中での多視点化がどうなるかは漱石には見えなかったのでしょう。これが未完であるのは意味深です。未だにここから出られず混乱する一方の日本を感じます。
 
理屈っぽい妹を耶蘇教と二度も揶揄してるのも目につきました。女性が人格を持って話始めるのはいいけど、やがてこれが女性の自立という思想に結びつき、有島武郎の「或る女」のような、人間の知恵の悲劇に結びついていく日本の近代思想のネガティブな流れを感じさせます。「アンナカレリーナ」を書いたトルストイが「イワンの馬鹿」を書いた意味。彼は少なくとも
頭でっかちで破滅しかもたらさない知識人たちの向こうの世界に立っています。
 
お貸しした久生十蘭彼はドキュメンタリーのように作品を描いています。戦争前後の知らなかった世界があります。こうではないかと思い込まされてた歴史の真実を垣間見たような感じです。漱石のような知識階級の高級な心理描写はありません。旧制中学中退で生きることに必死な人物にそんな余裕はなかったのかもしれません。極限的な出来事が起こってそれに振り回され、ある意味陰惨な最期を遂げる話ばかりです。思い描くような起承転結がないのが現実の人生なのでしょうが。気持ちの良くない変な作家の本をお貸ししたのではと後悔しております。
 
コロナ騒ぎはこれまで依拠していたいろんなことへの信頼を壊してしまいました。世の中はほとんど嘘で成り立っていたと思い知らされました。それは偶像崇拝と偽預言者に翻弄される末期のイスラエルそのものでありました。一方で、想像できないほどのパラダイムチェンジが起こりつつある。だけど利害でガッチリ結ばれてる人たちは、今は「陰謀論と言う便利な言葉で打ち消し、安心を買うしかないのでしょう。神の主権が取り戻される時を祈りたいと思います。
 
死という全ての人の終局点から出られない私たちですが、復活というのはこの点をずらすことだと最近思いました。それを主が成し遂げてくださった。そのことにによってこの世にあっても喜んで生きることができる。遅まきながらそう思いました。

 

コロナ禍の中の教会 10月2日、H先生への手紙から

教会では9月から聖餐式こそ行われるようになりましたが、ソーシャルデスタンスとやらを守りつつ、私とIさんを例外に全員マスクでの礼拝になっています。私は最初からどうしてこんなあたりを見ても誰も倒れている人がいない風邪を怖がってるんだろう、と不思議に思ってる方で、マスクは生きておられる神様を受け止めず、それ以外のもの(偶像)を怖がっている印のようでとても嫌で、世間と同じすごい圧力を感じつつ、礼拝に行くのも苦痛なのですが、いつかみんな目覚めてほしいと思いつつノーマスクを貫いています他の人にうつさないようになどと全員が突然に博愛主義者のようになったような物言いも、とても嫌です。それではコロナよりより多い3,000人以上の死者を出している毎年のインフルエンザのときはどうしていたのでしょう、と皮肉も言いたくなります。結核や肺炎球菌、交通事故など他の死亡事例とリスク比較すればすぐにわかることなのに、どうしてそれらと比べてコロナだけ特別にしてしまっているのだろうと思います。
 
実際の効果に疑問符が付されているマスクを神社のお守りのように絶対視し、専門家の言うソーシャルディスタンス、三密を加えて、半永久的な「新しい生活習慣」と称しています。これらはまるで社会と家庭の分断と破壊を意図して「これからはずっと愛なくして生きろ」と言ってるようで、悪魔の陰謀のように私には思えます。これをマスコミが連日の報道により煽り立てた非合理な恐怖をバックに、子供から老人までやすやすと順守するようにしてしまったのですから、恐ろしいことです。しかし、これも神様のご計画のうちなのでしょう。ナチスの迫害の時代、収容所に向かう列車に一人笑みを浮かべ小躍りをしつつ乗り込んだラビの話を読んだことがありますが、この世界を巻き込んでいる非合理な出来事も、神様がご計画のうちになさっていることであり、ここにも私たちを救いたもう神様が確かにおられるとの信仰へと導かれたく思います。
 
教会はコロナを恐れて右往左往する世間とは根本的に違う場所です。私はそのことのみを信じて、社会との間の矛盾を感じて何度か通うのをやめたいと思ったときもあったのですが、40年間かろうじて教会に繋がってきました。ある意味で教会とは誤解を恐れずに言えば、この世の常識と相入れない選択もしなければならない場所と思っています。ところが現状を見ると、この世の人の言うことを恐れ「私たちの生死を司り、私たちを救ってくださるのは神様だ。マスクをしてても、他の原因で神様から明日お呼びがかかるかもしれない、この我々には予知できない死を恐れるのではなく、滅びに至らしめるこの方をこそ恐れねばならない」という信仰的視点がかけているのが残念です。黙示録には「おくびょうな者」が第二の死へと至らしめる者たちの筆頭にあげられていますが、コロナを恐れる声が満ちる中でその言葉を噛み締めさせられている日々です。
 
コロナで良い事は、聖書を以前よりもっと読み自分で考えるようになったことです。最近、「そうか、気づかなかった」と思ったのが、「からだの復活」ということです。そうです、企図されてるのはまさしく「身体」という名の全体性の復活なのです。「脳」の復活ではないのです。ところが、近代以降日本に入ってきたキリスト教は、西洋の文化的知識として入ってきて知識人の間に広がりました。「信仰によって義とされる」というルターの命題も、教義や教理さえ法律事項のように頭で理解すれば良いかのように解釈されてしまい、教会は皆学校と同じくお勉強に励む場所になってしまいました。これでは普通の方に敷居が高いと思われるのは当然ですし、そこでは生きる喜びも得られません。この「身体」という受け止めがないから、頭と体の分裂が起こりました。例をあげれば、夏目漱石の苦悩も、文明開化で「身体」を失って西洋流の概念が詰まった「頭」を注入された知識人の典型的苦悩なのでしょう。内村鑑三と関わりのある有島武郎の出来事などもこの分裂と体の抑圧の中から起こった出来事なのかもしれません。そういう意味で知識人の近代は、等しく「ノイローゼを運命付けられた時代」です。
 
「身体」の抑圧というのは日本だけでなく世界中で近代以降に起こったことで、カントの人間の知的作用に偏重したカテゴリー分割の論理が底にはあるのでしょう。一方で近代理性の創始者のように見られているデカルトは、各地を放浪して歩いた人で、彼の理性はこの彼の放浪する身体とは無関係ではありません。小林秀雄には「様々な衣装」や「一つの脳髄」という初期エッセーがありますが、この時から近代知万能の風潮に懐疑的でしたが、戦後まもなく「常識について」というエッセーを書き、デカルトのボンサンスが彼の「経験」(身体)と無縁でないことを述べています。戦争に至るとんでもない選択も、「脳」が引き起こしたことという認識だったのでしょうか。先生がお話ししておられた、キリスト教会の感覚や感性の軽視もこのことにつながるものだと思います。
 
聖書でも悪魔は人間の「脳」に働きかけます。「神様はこうおっしゃるけど、実は…」というのは聖書を一貫してる誘惑のパターンで、私はこのことに関連して、かつて婦人会の代表を長い間勤められて、教会員から尊敬を受けていたある方がふと漏らした言葉をときどき思い浮かべます。今より信徒数がはるかに多かった時代、婦人会の方々が催しの準備で忙しくしていた時、「さあさあ、神様は何もしてくださいませんからね」と。ひょっとして私たちは今もこのように思っているのではないでしょうか。神様を遠く離れた私たちと関わりのない存在にし、人間の知恵の延長である形而上学の中に鎮座させ、人間の側からの倫理的努力目標のようにしてしまってはいないでしょうか。そこには人間の側に向こうから降りて来てくださった十字架の神様はおりません。
 
最近読んだ「ガラテアの信徒の手紙」では、ちょうど旧約ではアブラハムへ与えた神の「約束」の箇所を読んでいたので、「律法と約束」が分けて書かれてる箇所にとりわけ心が引かれました。そこでは「アブラハムとその子孫に対して約束が告げられた」と語られていますが、この「子孫」には洗礼を持ってキリストに結ばれた私たちも入っていると語られています。ともすれば、その新訳との関わりで罪の認識につながる律法にばかり焦点を当てがちな読み方をしていましたが、この永遠に変わらない神の「約束」の重要さについて遅まきながら知らされる思いがしました。律法を守れない私たち。しかし、初めからそれを神様はよくご存知で、はじめからご計画のうちにこの約束をキリストの贖いと復活、そして再臨に至るまで貫こうとしておられる。この「約束」は神と人との婚姻契約であると教えられた記憶がありますが、「約束」はまさしく神の不変の愛の証です。「山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」(コリントへの信徒の手紙一)聖書のすべての箇所を貫き通す遠点としての主キリストなる神様の愛に感謝したいと思います。

素晴らしきモスキートハンター

リスクゼロの崇高な目的に燃える頼もしいプロフェショナルたち。ここまでやれば、疫病を媒介する蚊も完全撲滅できるかも知れない。安心安全を追い求めた末、今この冗談がマトモなことになっている。

「人間にはだれにも七つの穴があって、それで見たり聞いたり食べたり息をしたりしているが、このコントンだけにはそれがない。これでは可哀想だ。その穴をあけてあげよう、というわけで七日かかって穴を開けて行ったがコントンは死んでしまった」。高校の漢文で習った有名な荘子の寓話を思い出す。

今、自然を数値でコントロールできると考えている、善意の専門家たちの提言でなされていることも、似たようなことだ。結果は、まず飲食業と観光業を息絶え絶えにしてしまった。日本経済全体を撲滅するようなことにならなければ良いが。

コロナが騒ぎ出す前、たまたま書棚にあるのを見つけて手にとった石川淳の全集の一冊、終戦直後の焼け野原で展開する諸短編(「黄金伝説」「焼跡のイエス」「かよい小町」など)を読んでいた。作者自身と思われる江戸から西洋まで幅広い文学の教養は持っているものの、役立たずのインテリ小説家以外には、娼婦と孤児ぐらいしか出てこない、基本、貧困と病気と飢餓の話だ。しかし、こういう環境でこそ露わにされる魂が白眉だ。一方で、前に書いたアラジンのランプの話が、コロナを予見していたとしたら、これら小説はこれから起こる破滅的な経済状況をなんとなく指し示しているようで、今はとても嫌な感じがする。

そうはなってほしくない。しかし、今まで起きていることが、戦争中に起こった事柄を別の形でなぞっているようで、驚くほど相似形であるとしたら、最後の結末だけ違うというのは、かえっておかしな話のようにも思える。戦後、膨大な戦時国債は、ハイパーインフレが起こってチャラになった。しかし、当時日本人の大方には、何もなくとも、将来への希望と夢と有り余るエネルギーだけはあった。今と比べて犯罪率も格段に高かったが、凄まじい勢いで奇跡の復興をしたのはご承知の通りだ。

さて今はどうか。安心安全の理想を掲げる福祉思想で骨抜きにされて、たくさんの老人を抱え(これからもどんどん増えていく)、さらに駄目押しのように起こった、「ケンちゃん」風邪がひたすら怖いで、今、他のリスクはまったく考えず笑止な自粛指示に諾々と従う、優等生の日本人に、それが可能か。かつて「わんぱくでもいい、たくましく育ってほしい」というコピーがあったが、今こそたくましい日本人よ甦れと願うのだが。

かつてはなぜだろうと思っていたが、「ヨハネの黙示録」で第二の死を迎える救われない者の筆頭に、殺人者、姦淫する者、嘘つきなどではなく、なんと「おくびょうな者」が置かれている意味がよく分かる。

 

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ちなみに、ここに取り上げた1969年から始まったBBCテレビ番組「空飛ぶモンティパイソン」のまねをして、日本では1971年日テレ系で巨泉×前武ゲバゲバ90分!が作られた。コメディの分野でも、今なら放映禁止になるであろう、キツイ皮肉を短い笑劇にまぶしたポップカルチャー全盛の時代だった。

 
(参考)ヨハネの黙示録/ 21章 08節
しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。」

「ウッドストック」は、パンデミックの最中に行われた。

あの40万人が集まったという伝説の「ウッドストック音楽祭」は、香港風邪のパンデミックの最中に行われたことを、この騒動の最中に初めて知った。日本では65万人がかかり、5,700人が死亡した。 コロナより断然多い。しかもこのアジア風邪は、約11年続いたのだ。 米国では、約400万人が死亡。

変革の嵐が吹き荒れるあの時代、若者(日本も含めて)はそんなこと誰も気にもとめなかった。自分も映画館の大スクリーンの前に陣取って、ピースマークを掲げるようなバカな若者の一人だった。(いま当たり前になっているピースマークは、ニコニコマークと一緒にこの時に由来する。)

一律に安心安全の理想を掲げる福祉社会というのも、個性と生きる喜びを奪い、ソフト官僚制を巨大化させ隷従的な人間を作るだけの迷妄ではないか。本来生きるのにゼロリスクなんて存在しない。だって人はどんな原因であれ、いつか100%死ぬんだもの。

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コロナの教訓 群盲象を撫でる

群盲象を撫でる、というインド発祥の寓話では、盲人たちは各々触った部位によってそれが何かを判断しようとする。一分野の専門家(ノーベル賞の学者であれ、限られた分野で優秀であるに過ぎないのに、全能感を持ってしまっている人がいる)を先頭に立たせると、彼らはその専門分野の狭い範囲の中でもともと真面目な秀才が多いので完璧性を目指すが、それが現実に応用されると大変な悲劇をもたらすことは馬鹿でも分かる。

本来、多様な専門家と、それを総合し適切な判断を下す能力がある組織とリーダー(政治家)がいないと実像すら見えない。今度の場合、この二つとも欠けている。こんな時、大衆は理性を捨ててその時々の感情やマジックに頼らざる得なくなる。この非合理な大衆感情に寄り添って商売しているマスコミなど害を倍加するだけだ。これは戦争中も起きたし、地震の時も、そして今度のコロナ騒ぎでも起きてることだ。

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葛飾北斎